―――「改革」という言葉にはとてもいいイメージがあります。
閉塞感のある状況のなかでは、とにかく何か説明してほしいという空気があります。「大きな政府か、小さな政府か」「官か民か」「資本主義か社会主義か」・・・単純な二分法で説明されると、わかったような気になりますよね。
でもそんなものは冷戦時代の古い構図なんです。今はある意味、歴史的な転換点であり、誰もが記憶も経験もないことに直面しているんです。心臓が悪いのに胃薬を飲まされても治らないのと同じで、新しい現象に目を向け、原因を確定して対応策を考えないといけない。ところが相も変わらず古い構図を持ち出されて、見当違いの選択を迫られているんです。
今、日本の財政赤字はGDP(国民総生産)の1.6倍にも上っています。とても返せない数字なのに危機感がない。なぜかというと想像ができないからです。
戦争に対しても同じです。従来の世界戦争は植民地の争奪戦であり、国と国とが総力戦をやるというものでした。しかし現在は、どこにいるかわからないテロリストに対して、世界中を戦争態勢に引きずり込んでいく。しかも自由と民主主義の名において・・・。これは世界が一度も経験したことのないタイプの世界戦争です。
経験も記憶もない事柄は、誰も想像できない。だからこそ慎重に考えないといけないのに、単純な論理でごまかされているというのが現状です。
―――確かに・・・。それにしても「構造改革」や「自己責任」が無責任を生み出すというのは驚きです。
大きな事件が起きても、大企業の経営者や官僚、政治家は誰も責任をとらない。逃げ切っていますよね。「官から民へ」と言いますが、不良債権や多くの企業不祥事を見れば明らかなように、この国は「官も民も」無責任体制なのです。その一方で、フリーターは着実に増え続けています。自ら選んでいる人もいるでしょうが、人件費を節約したい企業の思惑もあります。30歳を超えたフリーターが正社員になる率はものすごく低い。このままだと年金未納の高齢化したフリーターは増える一方でしょう。それを彼らの「自己責任」と言い切れるでしょうか。
―――けれども「構造改革」を支持する人は多いですね。
小泉政権や安倍政権のやり方を見ていると、「現状をぶっ壊してくれるなら誰でもいい」という破壊願望を多くの人がもっているような気がします。誰も責任をとらない社会では、金だけが公正の基準です。金だけは嘘をつかないというわけです。その金を使って既存の仕組みをぶち壊してくれそうな人物を圧倒的に支持する。ホリエモンや村上ファンドはそのあだ花でした。反対する人を「抵抗勢力」として攻撃する。マスメディアも面白おかしく煽る。おかげで仕事がない、生活が苦しい、将来の見通しが立たないなど厳しい状況にいる人ほど、古いものをぶっ壊してくれる“スター”を求めるという皮肉な現象が起きる。
ぼくの持論ですが、昔から社会主義者はたいてい地主や金持ちです。分け与えるものがある人だけが分配を考える。貧しい人間はみんな今日を必死で生きていかなきゃいけないから、正義だの公正だのと言ってられない。だからこそ統治者と呼ばれる人は、本来、社会が変な方向にいかないように考えるんです。そして儲けの一部は社会や弱い立場の人たちに還元する。独り占めするような人間はたとえ成功者でも軽蔑されるものです。ところが今の日本には経営エリートの中にも、社会全体や日本の将来のことを考えている人が一人もいない。だから「破壊するしかない」という願望が人々の間にどんどん蓄積しているんだと思う。
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