「耳が聴こえないから」と、手仕事ばかり奨励され
実は私自身、20代までは欠格条項という言葉そのものも正確には知りませんでした。私が教育を受けた時代には、聴覚障害がある子どもたちに対して「耳が聴こえないのだから、人と話さなくてもいい手仕事を」と奨励されていたこともあります。個人的には手仕事は好きだし関心もありますが、「障害があるからそれしかない」と決めつけられるのは別だと反発を感じていました。
欠格条項について漠然とした知識しかなかった頃は、法制度に阻まれる以前に、「障害をもつ人は小さい頃から将来の夢をもちにくかったり、進路が限られている」という状況を強く感じていました。女性なら裁縫や美容、男性は流れ作業の部品組み立てなどのかなり限られた職種に就労していきました。私も高3の進路指導では、「女性であるうえに障害者だから、大学へ行っても、たとえば研究者を目指すとなると二重三重の壁がありますよ」と言われました。
「拒否はしないが、要求もするな」
大学入試の際には、障害がある人には「事前協議」と称される特別な面接が何度もありました。「今までどのように勉強してきたんですか?」「大学に入ったら、どうやって授業についていきますか?」など、要するに「(障害のある)あなたが授業についていけるのですか?」ということばかり訊かれるんです。「(入学を)拒否はしないけど、特別なことは何もできません。要求もしないでください」というのが、受験した大学の姿勢でした。でも、当時(1980年)はまったくの門前払いという大学もまだありましたから、「合格しないことには始まらないんだから、仕方ないか」と思うしかありませんでした。大学に限らず、社会全体の障害者に対する見方も、「とにかく本人ががんばれば何とかなる」という感じで、私自身もそう思い込んでいたんですね。
ところが合格し、ホッとしたのもつかの間、さっそく“壁”にぶつかりました。ヒアリング主体の英語の授業で、「聴覚障害のあるあなたは、別のクラスに行ったほうがいいんじゃないですか」と講師に言われたんです。選択制ならまだしも、クラスの全員が受講するよう決められた授業でした。やっと周りの人の顔や名前を覚えた頃に、クラスのなかでひとりだけ「他のクラスへ行け」と言われたわけです。これにはさすがに衝撃を受けて、「この調子ではいつまでたっても大学生活になじめない。とても受け入れることはできない」と感じました。この時、初めて「障害者には大きな壁がある。個人のがんばりではすまない」と思ったんです。そこで障害者問題に取り組んでいた大学内のサークルに相談をもちかけました。このことが、私が障害者運動に日常的に関わるきっかけとなりました。
一方、大学とは交渉を重ね、大学の障害者問題委員会は最終的に「別のクラスへ、というのは障害者差別につながる発言だった。大学として障害をもつ学生の学生生活を保障する」という主旨の声明を出し、障害のある学生たちとの懇談会なども行うようになりました。
夢に向かって努力する人を阻む法は許せない
障害者運動との関わりが深まるにつれて、運動に専念したいという気持ちが強くなり、大学は4年で中退、障害者の自立生活や就労に関する活動をしていました。そのなかで、欠格条項に関連して大きなインパクトを与えた出来事がありました。
1996年のお正月明けのことです。関東にある自立生活センター経由で一通の手紙が回覧されてきました。「聴覚障害者からこんな相談が寄せられているが、どう答えたらよいか」というメモがついていたその手紙には、「高校2年生です。医学部を受験したいが、障害があると医師国家試験を受験できないと聞いた。そうなのですか?」と書かれていました。読んで、ひと言では言い表せない衝撃を受けましたが、何よりも障害者自身が「医師になりたい」と思えるようになったということが驚きで、そこに希望を感じました。そして「自分の夢をもち、努力してもなお法制度に阻まれることは許し難い」と強く思ったのです。
同時に、若い人たちのこうした思いが表に出ることによって、自分を含む年長の世代の大部分が法制度の壁にぶつかる前にあきらめてきた、いえ、あきらめさせられてきたことも照射されたと受け止めました。実際、このような話が出てこなければ、私も欠格条項に対して単なる情報資料収集やデータ作成でとどまっていた可能性もあります。けれども、私はこの手紙によって「障害の有無でその人の可能性や能力を決めつけてしまう欠格条項を何とかしなければ」と思い、「障害者欠格条項をなくす会」の設立を呼びかけたのです。
(次回へ続く)
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