子どもポルノの「効果」
・・・18歳未満の子どもを描写したポルノ、というと「特殊な嗜好をもつ人たちの問題」というイメージがありますが、実際のところはどうなんでしょうか?
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第2回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議のポスター |
子どもポルノや子ども買春の問題に関わる人たちの間では、加害者を大きくふたつに分けています。ひとつはいわゆるぺドファイル、もっぱら子どもに性的欲求が向く人たちです。もうひとつが状況的な加害者です。たとえば「たまたま買ったのが子どもだった」「安かった」、あるいは日本の場合ですと「出会い系サイトで簡単にアクセスできる」「女子高生に対してファンタジー的な要素を求める」といったように状況に応じて加害者になるタイプ。
組織的なぺドファイルのグループが活動するという事例もありますが、実態としては圧倒的に状況的な加害者が多いのです。
・・・誰もが加害者になる可能性をもっているわけですね。ところで、そもそも子どもポルノは、子どもたちの人権をどんな形で侵害していると言えるのでしょうか。
まず、その時にとられた行為自体が虐待として心身に傷を残します。またそれが保存されてしまうということも傷になってしまいます。虐待を受けていた時は意味がわからなかったり、軽い気持ちでオーケーしていても、後で後悔する場合も多くあります。ところがいったんインターネット上で公開されると、つくった人が逮捕されても誰かがもっているかもしれない。そう子どもたちが思ってしまう状況がある限り、子どもポルノの「効果」というものはずっと継続し、子どもたちを傷つけてしまいます。
「効果」はそれだけではありません。
・・・ほかにもまだ「効果」があるのですか?
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インターネット上の子どもの人権侵害にたいし具体的ですぐに役立つ知識・情報が掲載されている「インターネット上の子どもの安全ガイド」 |
ストックホルム会議以来ずっと言われているのですが、虐待者が子どもに見せ「こういうことをしてごらん、楽しそうでしょう」という導きをする、子どもの抵抗感や抑制を低める、虐待した子どもやその家族を脅迫する、そして社会全体に「子どもを性的な対象にしてもいい」というメッセージを発してしまう「社会の鈍感化」を招きます。虐待者や子どもポルノ愛好家にとっては「自分が特別に異常なわけではない」「みんなもやっている」という自己正当化につながります。
どの面が強く出るかは国によって違うと思いますが、こういったことが子どもポルノの「効果」として世界的に認識されています。被写体となった子どもの被害はもちろんのことですが、このような「効果」全体もみていく必要があります。
子どもポルノを再生産する「仕組み」
・・・いくつもの要素が絡まりあい、さまざまな形で子どもの人権を侵害しているのですね。それではこうしたインターネット上での子どもポルノの氾濫を食い止めるにあたって、どんな課題があるのでしょうか。
前に述べたように、量が膨大で作り手や買い手も拡散することによって捜査が追いつかないという現状があります。法律面でも、日本も含めてインターネットを想定したものがない、あるいは十分でないため、従来の法律の文言を解釈によって適用できるようにしているなどなかなか追いつかない。そしてどんどん新しい技術を取り入れる犯罪者たちに対抗するためには、捜査側も常に新技術を身につけていかなければなりません。
・・・「進化」」する犯罪に対して法律や捜査技術が必死に追いすがる・・・そんな様子が目に浮かびます。日本特有の問題としては、どんなものが挙げられますか?
インターネットの問題から少し離れますが、「援助交際」という言葉に象徴されるように売買春を「売っている子どもたちの問題」としてとらえていることが典型的ですね。「売春という逸脱行為をする子どもたちに問題があるのだ」と。逆に「援助交際」をする子どもたちに対して肯定的な反応を示す人たちは「彼女たちは自己決定権を行使してしたたかにやっているのだからいい。むしろたくましい女の子たちなんだ」と言います。それも「普通の女の子」として。あるいは、途上国における貧困を背景とした買春やポルノとは違うのだ、と。
しかし当然、需要があるから供給者をつくってしまうわけです。子どもポルノと子ども買春にはつながりがありますが(子どもを買った大人がその様子を撮影し、ポルノとして供給するなど)、「売春を自ら選び、楽しむ子ども」というイメージを提供する子どもポルノが、さらにポルノやその他の行動を再生産し、買う側も罪悪感をなくしてしまいます。また買わない人たちの間にも「あれは女の子たちが悪い」「好きでやってるんだから」というイメージを植えつけてしまう。
自分たちがそういった目で見られることに対して不快感を抱いている子どもたちも多いです。それ自体が子どもたちへの暴力だと思う。一方、まさに子どもポルノの「効果」のひとつとして、「こういうことをやってもオーケーなんだよ」「楽しいよ」というメッセージを発してしまいます。
日本のここ十年の流れは、子どもポルノの特徴がある意味、如実に表れたのではないかと感じています。