著書『「在日コリアン」ってなんでんねん?』(講談社+α新書)でも、本名・通称名のことをどう考えるかについて問題提起されています。
出自と名前については、在日社会のタブーの議論の一つになってきましたが、それは100年近く前の日本の植民地支配や創氏改名という歴史に起因しているのです。通称名を、在日として生きていくうえで便宜的に使っている人もいれば、通称名の中に民族的アイデンティティを感じている人もいますが、日本名を名乗るとか日本の国籍を取るとかは当人の判断で、他人が強要できるものではないんです。日本の国もそれを法的に認可している。法的に認めたくないというなら、通称名を公的な書類で使えないように、国会で新しい法律を作るしかないわけです。
重要なことは、日本で、韓国の名前を名乗っていても、韓国朝鮮籍でいても、どのようなルーツを持っていても、差別や不利益を受けない社会をつくることであって、それ以上でも以下でもないということなんですね。そこを立脚点にして議論を進めないと、通称名を名乗っている人は民族の裏切り者とか、偽名を名乗って嘘をついているとか、とんでもない話になっていくわけです。なぜその人たちが通称名を名乗っているのか、歴史的背景と日本の植民地開発政策の因果関係を日本人が考えることが先決だと思います。
それなのに、昨年来、「強制連行で日本に連れてこられたわけじゃない」「貧しい朝鮮から豊かな日本に移住しようと思ってやってきた」「植民地時代に日本は土地強奪をしたのではなく、朝鮮農民を救った」「在日は不法入国や自己都合で渡日し、居座っているだけ」などと書いた「嫌韓流」云々という本が出回っています。
「韓流」というのが、韓国を正しく理解し、韓国人に学びましょう、という主旨であるならいいんですが、残念ながら、出回っている「嫌韓流」の本に書かれていることが根拠がなくすべてでたらめです。そもそも「嫌韓流」という言い方自体、「韓国が嫌い」という人種差別を肯定した発言じゃないですか。
韓国人をみんなで嫌いになって差別しよう、という本を出版できる自由がある社会とは、暴力を容認する社会です。「嫌韓流」が公認されていくなら、極論すればコリアンからは「嫌日流」しか出てこないことになります。そして「嫌韓流」と「嫌日流」がぶつかりあったら、お互いが相反して衝突、もっと言えば戦争しかないことになる。著者たちは戦争を容認する社会を望んでいるのでしょうか。在日の歴史をきっちり勉強すれば、「嫌韓流」本に書かれたすべての項目に誰もがきちんと反論できますよね。
「嫌韓流」の本に、「強制連行」について、在日大韓民国青年会が集めた在日コリアン一世の証言から、強制連行では括りきれない、さまざまな理由での渡日の経緯により、在日コリアンのすべてが強制連行の被害者とその子孫であると考えるのは間違いだと書かれていますが、その見解は私も同感です。決して「嫌韓流」の味方をするわけじゃないですが、「嫌韓流」に学ぶ点が一つあるとすれば、歴史をきちんと捉えなおす作業を迫っている、ということでしょう。
「強制連行」という言葉が使われ出したのは、朴慶植(パク・キョンシク)さんが1965年に書いた本からですが、日本人の犯罪であることを強調したイデオロギッシュなネーミングだったと言えるかもしれない。故・金英達(キム・ヨンダル)さんが示したように、「強制連行」という言葉より「強制力を伴った労務動員」という言葉のほうが、イデオロギー的な要素を排除した正確な表現だと私も思います。労務動員が官斡旋になるにつれて強制力をともなうようになっていった、と。そのあたりの表現も、これから議論していく必要があると思います。
いわゆる強制連行の場合以外に、自分の意思で来日した場合もあるのは事実でしょう。しかし、後者は自分の意思とはいえ、土地調査事業によって日本国に土地を奪われていく中、食べていくための方法として来日を余儀なくされたわけですから、これも広義の「強制力を伴った労務動員」で、間違いなく植民地政策の犠牲による来日といえるんじゃないでしょうか。
確かに。1939年からの日本企業による「募集」、42年からの朝鮮総監府が介入した「官斡旋」を経て、44年9月からの「徴用」と、徐々に「強制連行」の色彩が強まっていった中、39年から45年までに動員された朝鮮人労働者数は80万〜120万人、軍人・軍属として徴用された人たちを加えると、「強制連行」被害者の実数は150万人を超えるという調査結果もあります。
この中で民間企業による「募集」を「強制連行」に含めるかどうかは議論の分かれるところですが、公権力が介入して朝鮮人労働者を強制・半強制的に日本に導入したという点では「徴用」と「官斡旋」は変わりはありません。また、日本企業の「募集」に応じて来日した人の中には、過酷な労働を強いられた上にまともに給料を与えられない生活に追い込まれ、その職場から命からがら逃げ出し、他の職場を転々としていかなければならなかった人たちも少なくありません。土地調査事業で土地を奪われたために生活苦に陥り「豊かな日本」に移住せざるを得なくなった、産米増殖計画の実施により食べる米がなくなったというケースも多いのは、土地調査事業が行われる前はわずか970人にすぎなかった在日コリアンの人口が、この事業が完了した1919年には2万8000人にふくれ上がったことや、1920年から36年までに朝鮮で米の生産高が20%上昇しているのに、対日移出高が400%以上に増加したことで朝鮮人一人あたりの米の消費量が40%近く減少していることから明らかです。ですから、一世が「自由意思で、望んで日本へ来た」「自己都合で出稼ぎに来た」というような見解は明らかに誤っていると思います。
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