「女性はセックスの対象」という考え
----「宗教上の理由」で、山が女人禁制領域となったのは、いつごろからですか。
(参考図書)
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女人禁制 現代穢れ・清め考(木津譲著 解放出版社・価格1,800円+税)
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日本の仏教が女性を明確に排除し始めたのは平安末期の、いわゆる平安仏教の確立の時期。空海の開いた高野山、最澄の開いた比叡山がそれぞれ「結界」を定め、女性をその対象としたときからでしょう。
それぞれの聖地が人里から離れた場所に求められたのは、出家者(僧侶)が世俗社会に染まらないことを考えたからで、「結界」によって世俗の習慣や風俗を排除し、修行者(男性)の煩悩の対象を軽減したといえなくもありません。自然との関係もあり、清浄な状態を求めたからともいえるでしょう。
しかし、女人禁制により、その「結界」の中には、出家していても女性は入ってはいけないと定められたわけです。修行者にとって、女性が近くにいると迷い(煩悩)が生じ、修行のができないからと。端的にいうと女性はセックスの対象としてみられていたのでしょう。
----そうした男性中心主義の宗教が、社会化されていったということですか。
そうです。浄穢思想の考え方が一般にも広まり、いろいろに応用され習俗(文化)として定着します。高野山、比叡山以外にも山岳仏教が「女人禁制」をつくり、各地の山や神社寺院の門前に「結界石」が建てられ、文芸もそうした文化を受容します。
さらに近世の女性の教養テキストとなった『女大学』などに読める「三従」や、仏教(とくに浄土真宗)の教化に使われた「五障三従」も、女性の存在を男性に従わせるもの、劣ったものであると伝えています。
先に言ったように、祭りの鉾に上れない、土俵に上れない、鳥居をくぐらせないなどの禁忌が生まれ、近世以降の女性観に影響を及ぼすことになったのです。このようにして、女性を「穢れて劣った存在」とする男尊女卑の考え方が民衆の間に広く浸透していったのです。
----明治政府は、女人禁制を解いたのでは・・・?
1872年(明治5)、明治政府が「神社仏閣ノ地ニテ女人結界ノ場所有之候処、自今廃止候条登山参詣等可為勝手ノ事」という太政官布告を出しました。これは、1876年(明治9)、東京で開催される初めての内国勧業博覧会に先立ち、来日する外国人たちが京都を訪れるであろうことを意識して布告されました。外国人の多くは夫婦同伴ですから社寺仏閣への見学の妨げになることを恐れたのです。近代国家としてのメンツでしょうか。
これにより、比叡山、続いて高野山が「女人禁制」を解きました。高野山と比叡山のみならず、全国の「聖地」や寺院も女性に開放されたはずでした。が、それから130年余りの年月を経た今も、頑なに「女人禁制」を掲げているのが「大峰山」などなのです。
合理性があるとの錯誤が生み出す男尊女卑意識
----そういった経緯を知ると、今なお女人禁制が残っているのは、妙ですね。女性は出産したり生理で血を流すから「穢れている」などという考え方はあり得ないし、女性が男性よりも「劣っている」と、本気で思っている人などいないでしょうに。
「穢れ」の意味やその成り立ちを知ることなく、女人禁制を「伝統文化」「習慣」ととらえることには、問題を指摘せざるを得ません。「伝統文化」は、普遍的な原理であるとはいえないのに、長い歳月を経過することにより、あたかも正当な文化であるといった主張が生まれたり、合理性があるかのような錯誤をもたらしてきたのです。
女人禁制のシステムが成立したのは、人権意識がなかった時代です。そのころから1000年近くの年月が経過し、人権の視点を持って物事を考えることができる時代となった今、このシステムを肯定するわけにはいかないと思います。
「宗教的な理由」「伝統文化」は、(1)なくしていいもの、(2)新しく変えていった方がいいもの、(3)残していく方がいいものの3つのパターンを想定できると思います。「大峰山」などの「女人禁制」は、明らかに(1)だといえます。
女人禁制のシステムにより、「女性は男性よりも劣ったものである」「穢れたものである」という思想が社会意識化され、機能させてきたことは、「女(男)だから」という性別役割分業意識にも影響を及ぼし、現在、問題となっているドメスティック・バイオレンスやセクシュアル・ハラスメントなどの精神的基盤を形成してきたことも考えなくてはならないことです。
つまり、「女人禁制」との対応は、過去の陋習の清算にとどまらず、未来への私たちの課題でもあるのです。
(2004年2月取材)
女人禁制その2。大峰山と山麓の洞川村ルポへ
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