「決められる」ということが一番大切なのではない
・・・すごく基本的な疑問なんですけど、そもそも『自己決定』とは何でしょう? 障害があるという「弱い立場」にいると特に、「自分で決めた」と「決めさせられた」との境界がすごく曖昧になりがちじゃないか、そう決めざるを得ない状況がそもそもあるとすれば、『自己決定』自体が『健常者』の物差しになる恐れがあるのでは、と思うのですが。
社会福祉業界用語としての『自己決定』というのもあります(笑)。ただ、障害者運動のなかでの『自己決定』というのは、障害者自身の言葉として選び取られてきたのであって、借り物の言葉ではないと僕は思うんですね。
言い方がすごく難しいんだけど、「充分に決定できない人もいるじゃないか」というのは、運動をやってる人たちのなかでも大きなテーマです。でも「そういう人たちのために社会福祉がある」とか「そういう人たちを代弁するために専門家がいるんだ」と、すぐに話をそっちに持っていこうとするのが、いわゆる専門家の人たちなんですね。彼らは言葉、たとえば自己決定という言葉の捉え方が狭すぎるんです。言葉としての意味をきちっと説明できるというだけじゃなく、もっとゆるく考えたら、知的障害のある人だって自分の思いや言いたいことを言葉じゃない形で伝えられるし、それも自己決定のひとつの形ですよね。当事者たちは「社会はその意思表示をちゃんと受け止めようとしなかったじゃないか、だから“決められない人もいるよ”と簡単に言わないでくれ。ちゃんと聞いたらわかるはずだ」と言ってきたわけです。
何度も言うけど言い方が難しいところで、「決められるということが一番大切なことじゃないよ」とは言えるかもしれないけど、そう言うとすぐに「じゃあ代わりに私が決めてあげましょう」という話にからめとられてしまう部分があって、「いや、それはちょっと待って。まずはもう少しきちんと聞いてくれ」というのが当事者たちの言い分である、と。
それから、「それでも確かに聞き取れない、わからない」という場合もあるんですが、「わかる」「わからない」という話になると、自分の思いをきちんと伝えられるということが一番大切なのか、価値があることなのか、という問題が出てくるんですよ。それに対して、どう答えるのかという。
・・・『自己決定』という言葉のとらえ方が、障害がある人たちと福祉関係者たちとでは違うんですね。それから、自己決定にこだわることによって、「自己決定をし、それをわかるように伝えられることが一番大切なのか」という問題も出てくる・・・・・・。
それに対してすごく大雑把に言ってしまうと、こうなるかな。「どうすれば気持ちがいいかは、本人が一番よくわかる」というのは基本的には事実だから、その決定を尊重することは大切です。でもその前に、その人が存在している、生きて暮らしていることそのものが大切であり、生きて暮らすあり方のひとつとして「本人が決めたように暮らしてもらう大切さ」があるんじゃないかと僕は思うし、言い方は多少違うかもしれないけど、運動をやってきた人たちも同じことを言い続けてきたんじゃないかと思うんです。
つまり「自分で決めて、決めた通りにやる」というのが一番目の価値じゃなくて、「そのまんまの形で生きてる」というのが一番目。その一部に「本人が決めた暮らしをしてもらう」というのがある、と。だから「自己決定できない人間には価値がない」という言い方に反対しつつ、「自己決定なんて大した問題じゃないよ」という言い方にも反対しつつ、自己決定の大切さを言っていかなあかんというところが難しいといえば難しい、面白いといえば面白いところですね。
「できる」イコール「価値がある」という考え方の落とし穴
・・・「存在していること自体が一番大切なんだ」というのは、理屈としてはよくわかるし、大事なことだと思います。ただ実際には「できなかったことができるようになる」「自分の暮らしを自分の力で支えていく」ということによって、喜びや充実感を得るのも事実だし、私も含めて多くの人たちがその喜びや充実感を求めて生きているといっても過言ではないと思うんです。そんな私たちが、「生きているのが一番大切なんだよ」と言っても説得力がないのでは?
それはその通りですね。今までできなかったことができるようになるというのは新鮮だったり、世界が広がるような気がしたりというのは、確かにあります。そういう意味では「できるようになる」というのは、本人にとって悪いことじゃない。