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特集



性の多様性からじぶんについて考える 田中一歩さん 近藤孝子さん(にじいろi-Ru)

2024/07/01


国際人権大学院大学(夜間)の実現をめざす大阪府民会議では毎年様々な切り口で人権をテーマにした「プレ講座」を開講している。第2講はにじいろi-Ruの田中一歩さん、近藤孝子さんに「性の多様性からじぶんについて考える」をテーマに講演していただいた。その様子を報告する。


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 ぼくたちはふだん4歳以上の子どもたち向けの講座をメインに活動しています。今年度で8年目となりました。活動を通じて見えてきたのは、子どもたちの性に対する価値観や意識、偏見でした。それはぼくたちおとなの価値観や意識、偏見を反映しているもので、おとなが考えないといけないことばかりだなと思っています。

 今日はそんなことを含め、ぼくたち自身のことや性のあり方、性の多様性とはどういうことなのかをみなさんと一緒に共有したいと思っています。

【一歩さんの語り】
人権を大事に育てられながら、誰にも言えなかったこと

 ぼくは被差別部落に生まれ、人権を大事にしようとするおとながたくさん周りにいる環境で育ちました。両親をはじめ、学校の先生や地域の人たちなど、ぼくたち子どものこともいつも一生懸命考えてくれているのを実感しながら育ちました。

 ただ、ぼくのことを大事にしてくれるおとなたちにどうしても言えない悩みごとがひとつだけありました。

 それが「自分の性のあり方」について、でした。
 ぼくに「割り当てられた」性別は女の子でした。

 多くの子どもたちは生まれた時の外性器の形によって、本人の意思とは関係なく性別を割り当てられます。なかには外性器の形での割り当てが難しい子どももいます。ぼくの場合は「女の子」という性別が割り当てられ、ぼくは両親はじめ、周りのおとなたちに女の子として育てられます。

 ぼくは見た目でいうとよく「男の子」と間違えられました。それをうれしいと感じる自分もいました。同時に「うれしい」という感情を家族や友だちには絶対に知られてはいけないと思っていました。

 たとえば中学生の頃、水泳の授業が始まる時期になると、学校で水着の販売がありました。その時、ぼくを見た業者さんが男子用の水着を渡してくれたんです。内心、めちゃくちゃうれしかった。でもぼくは自分が一番仲のいい友だちにわざわざ見せて、「見て、これ。(自分は)女やっちゅうねん」と「笑い」にしてみせたんです。そして大爆笑する友だちを見て、男の子に間違えられてうれしいと思っている自分の本当の気持ちがバレずにすんだとホッとしていました。

 誰にも言えないことはもうひとつありました。ぼくの恋愛対象についてです。ぼくは女の子として育てられ、学校でも女の子として存在しながら、自分では自分を「男の子」だと思いながら生活していました。そんなぼくが恋愛対象としていいなと思っているのは、女の子でした。女の子として存在しながら、女の子を好きになる。そんな自分がやっぱりおかしい。このことを絶対に誰にも知られてはならないと思っていました。

 ぼくは中学高校と女の子の制服を来て通学していました。「女の子」のぼくは、休憩時間にわざわざ友だちを集め、「男子の中で誰が好き?」と訊きます。「私はAくんやわ。だってめっちゃやさしいやん」と、わざわざ自分から本心ではないことを言うんです。「自分はみんなと同じ、男の子が好きな普通の女の子」。そんなふうにみんなに思ってもらうことが、きっとぼくにとって大事なことだったんやと思います。

 ただ、集められた友だちの中に、「こんなことを言わされていやだなあ」と思っていた友だちがいたかもしれないと気付いたのは、ずいぶん後になってからでした。きっとぼくは自分がおかしくないと思われたくないがために、自分の気持ちとは真逆なことを言ってみたり、笑いにしてみたり、嘘をついたりして生活してたんじゃないかなと思います。

部落差別のおかしさは話し合えても

 ぼくは子どもの人権を大事にする保育士になりたいと思っていたので、2年間大学に行った後、20歳の時に豊中市の保育所に就職しました。子どもの人権はもちろん、保護者や職員、その保育所に関わるすべての人の人権を大事にしようと一生懸命取り組んでいる保育所でした。ぼくはそこで自分が被差別部落出身であることは話していました。部落問題の研修がおこなわれていて、部落差別はおかしいと話し合える人たちがたくさんいたからです。でも自分の性のあり方については話せませんでした。

 たとえば、こんなことがありました。休憩時間に、ある先生がぼくに「先生、ほんまにええ子やな。うちの息子の嫁にきてほしいわ」と言ったんです。その人にすれば、その言葉は最大の褒め言葉だというのはわかりました。ぼくは「ほんまに? ありがとう、うれしいわ」と答えました。小学生の頃と変わらず、人に合わせて自分の気持ちに嘘をついたり笑いにしたりして生活してたんですね。

 ある時、その保育所に別の保育所からやってきたのがコンちゃんでした。実はコンちゃんとは保育の実践報告会などで一緒になることがあり、その内容にとても共感や尊敬をしていました。だから一緒に働けることがとてもうれしかったです。

 そして実際に働き始めると、コンちゃんがどんな時も先入観を一切もたず、常に目の前の子どもの気持ちを聴いて一緒に考える姿勢がぶれないのを知りました。ぼくにはできなかったこと、気付けていなかったこともたくさんあって、ぼくはコンちゃんと毎日のように子どもたちの話をするようになりました。

 そして、そのコンちゃんに、これまで誰にも話せなかった「小さな頃から自分を男の子だと思っていたこと」「誰かに話せば笑われるかもしれない、おかしいと言われるかもしれないと思い、話せなかったこと」を初めて話しました。その時ぼくは24歳になっていました。

ちゃんと話を聞いてもらい、初めて自分の気持ちに気付いた

 ぼくが一生懸命話すと、コンちゃんは一生懸命聴いてくれました。話終わった時、最初に言ってくれた言葉は、「ひとりぼっちでしんどかったな」でした。

 「しんどかったな」という言葉は意外でした。というのは、ぼくは「しんどい」と思ったことがなかったからです。人に合わせて嘘をついたり笑いにしたりすることがぼくには当たり前過ぎて、自分がしんどいことにも気付けなかったんですね。でも「ひとりぼっちで」という言葉には、胸がきゅんと苦しくなりました。それは、ぼくは小さな頃から「自分みたいに変な人は世界にたったひとり」と思っていたからです。

 コンちゃんの言葉を聞いたぼくは、具体的なことをたくさん話していきます。小学生の時から自分のことを「ぼく」と言いたかったけど、「あなたは女の子だから、"わたし"と言うのよ」と言われたこと。スカートが大嫌いだったのに、スカートを履いたらお母さんが喜ぶやろなあと思って、誰にも強制されてないのに我慢してスカートを履いていたこと。たくさん話しました。

 ぼくの話をずっと聴き続けたコンちゃんは、「小さい時から思ってたことをいっぱい話してくれてありがとう。いっぱい我慢してきたけど、大人になった今、一番したいことは何かある?」と訊いてくれました。

 その時、パッと出たのが、「男性もののパンツが履きたい」という言葉でした。したいと思っていたことはたくさんあったのに、とっさに出たのが「パンツ」だったんです。するとコンちゃんは、「履きたかったパンツを一緒に買いに行こう」と言ってくれたんです。ぼくは本当にうれしかった。パンツのこともうれしかったけれど、何よりうれしかったのは、ぼくの話をちゃんと聞いてくれたことだったんです。

 このエピソードは、小学一年生以上の子どもたちには必ず話します。すると低学年の子どもたちは笑ったりします。「タンスから好きなパンツ取って履くだけやんか」と。

 ぼくはこう応えます。「そうやね、みんなにとってあたりまえにできることが、ぼくにはできなかったということやね。じゃあ、ここにいるみんなは、ほかの人があたりまえやと思っていることが自分にはあたりまえにできないということはないかな? そしてそんな時に話を聞いてくれるお友だちや先生はいるかな。どうしたらいいか、一緒に考えてくれる先生やお友だちがいたらいいなとぼくとコンちゃんは思ってるよ」

 すると、子どもたちはたくさん話したりお手紙に書いてくれます。

【コンちゃんの語り】
気付けないことがマジョリティの証

 わたしは女性の体で生まれ、自分を女性だと感じて生きてきました。一歩の話を聞いて、自分が割り当てられた性の決まりごとの中で、何も困ることもなく、嘘をつくこともなく生きてこられたことを初めて知りました。性のあり方や、性がどれほど多様であるかを知らなかったし、考えることもありませんでした。わたしは困ったことはなかったけれど、それはわたしがマジョリティだったからです。一緒に育った友だちの中には、困っていた子もいたかもしれません。「気付かずにいる」こと自体がマジョリティ(多数派)の証だと思います。そして、気付いても「自分は当事者じゃないから」と黙っているのは、マイノリティ(少数派)の人たちを「いない」ことにしてきたマジョリティ中心社会を認め、加担することだと思います。

 わたしは一歩が話してくれたのをきっかけに、性のあり方や多様性について学び始めました。

100人いれば100通りの性がある

 ここからは、みなさんと一緒に性のあり方や多様性について共有できたらと思います。  今、わたしたちは性を4つの側面から考えることで、多様さを感じてもらえるのではないかと考えています。

 まず、「生物学的性:Sex」です。性染色体、外性器・内性器の状態やホルモンなどの要素によって決められる性です。あかちゃんはおなかの中でさまざまに成長発達をして生まれてきます。その時にいわゆる典型的な男の人の身体のカタチあるいは典型的な女の人の身体のカタチとは違う発達をもって生まれてくる人たちがいます。たとえば女性の外性器をもちながら卵巣はなく精巣があったり、卵巣と精巣の両方があったりと現実には多様なSexが存在します。

 2つめは「性自認:ジェンダー・アイデンティティ」です。自分自身の性を自分がどうとらえているか。たとえば「私は女(男)です」「私は女であり男でもあると感じています」という人もいれば「私には性がないです」という人もいます。

 3つめは「性表現:ジェンダー・エクスプレッション」です。みなさんは何色が好きで、どんな服装が好きでしょうか。好きな髪型や呼ばれ方を選べていますか? 性別役割(期待される役割、「男らしさ」「女らしさ」)を押し付けるのではなく、その人が望む性別表現(服装・仕草・言葉遣い)を子どもの時から尊重されることで、人は安全安心を感じられると思います。自分の好きな色や望むあり方ができていないのであれば、本人の問題とするのではなく、その「場」の意識や価値観を問わなければならないと思います。

 4つめは「性的指向:セクシュアル・オリエンテーション」です。恋愛や性愛の対象となる性別のことです。同性が好きという人もいれば異性が好きな人、相手の性別にこだわらない人、友情としての好意はあるが恋愛感情はないという人もいます。

 セクシュアリティ(性のあり方)には4つの側面があり、どの側面もそれぞれ人によって違うとお話ししてきました。100人いれば100通りの性があるということを感じてもらえたでしょうか。

 性のあり方に優劣はなく、すべての性のあり方が尊重されることがとても大切だとわたしたちは考えています。けれど現実には、一歩と同じような経験をしている子どもがまだまだいます。講座で出会う子どもたちの言葉からそれを感じます。

【ふたりの語り】
これまでの「あたりまえ」や「正しさ」を問い直し、子どもたちに信頼されるおとなに

 ぼくたちの話を聞いた子どもたちからもらう手紙には、一生懸命に誰かのことや、自分の性のあり方について考えたことが伝わってきます。

 いくつか紹介します。

ぼくも友だちに、「ぼく」と言うのはおかしいよと言われたから、今日は自分の言いたい言葉で話していいと聞いて安心した。(小学2年)

話のなかで髪型の話をした時、「自分の好きな髪型をしている人」に手をあげました。でも本当は心の中では髪の毛を長くしたいと思っていました。ぼくは男の子なんですけど、女の子60%、男の子40%と思っています。今日の話を聞いて初めて自分に正直になれました。(小学5年)

ぼくは話のなかに出てきた子と同じように、人を好きになれることができません。なので2年生の時に「〜は〜が好き」という話を聞くようになると、自分だけ変なのかなと思うようになりました。今日、話を聞いて、自分だけじゃないと安心しました。(小学5年)

ぼくは同性が好きで、友だちに言った時に「キモい、ゲイだ」と言われたことがある。今日の話を聞いて楽になった。(中学1年)

 手紙だけでなく、話をしに来てくれる子どもたちもいます。8年間、子どもたちと出会い、話をしてきて、思うのは「異性愛が普通で幸せ」という社会のメッセージの強さです。生まれた瞬間から、そのメッセージをシャワーのように浴びて育った子どもたちは、そうではない性に否定感を抱いてしまいます。

 わたしたちおとなは、子どもたちに「自分の気持ちを大事にしてね。思うように生きてね」と言うだけでなく、おとながつくっている社会がどんなメッセージを発信しているのか、そして自分を生きられているか、周りの人たちはどうかを問い続ける必要があると考えています。

 性のあり方に限らず、子どもたちがしんどくなった時、ぼくにとってのコンちゃんがそうであったように「この人ならきっとちゃんと聞いてくれる」と思ってもらえるおとながいてくれるよう、いつも願っています。そしてぼくたちもそうであるよう、これからも自分を問い続けながら、子どもたちと向き合っていきたいと思っています。