感情を共有する警察・検察とメディア 鳥越俊太郎さん
2011/09/28
——鳥越さんはずっとえん罪事件に関心をもち、取材をしてこられましたね。
ぼくがえん罪と最初に出会ったのは、子どもの頃なんですよ。ひとつは菅生事件。大分県菅生村で駐在所が爆破され、5人の共産党員が逮捕されたんですが、実は警察官が共産党に潜り込み、自ら爆弾を仕掛けて事件をでっち上げたと後でわかる。もうひとつが松川事件。福島県松川町を通過中だった東北本線が脱線して3人が亡くなった事件で、労働組合の幹部たちが逮捕されました。一審で5人に死刑判決が下され、控訴審でも4人が死刑とされましたが、謀議をしていたとされた時間にアリバイを証明するメモが出てきてひっくり返った。最終的には全員が無罪になりました。
2つの事件の報道を見て、子ども心に「警察や検察はこんなことまでやるのか」とすごいショックを受けましたね。
——大学を卒業後、新聞記者になられました。報道の現場で働くなかで、えん罪に関してどんなことを感じられましたか?
多くの新人記者はまず地方支局に配属され、警察や裁判所、検察庁を回るというのが一般的です。ぼくは大学に7年いたので、先輩記者と年齢が一緒で扱いにくかったんでしょう、新人記者時代の警察回りからは外されました。でもその後、大阪の岸和田に2年半いた時期にはあちこちの警察を回りました。文字通り夜討ち朝駆けで、おまわりさんの心をどうやってつかむか、毎日苦労しました。事件が起きると、捜査が始まります。その時、捜査情報はすべて警察か検察が握っていて、そこからしか情報は得られないようになっています。すると記者は、警察官や検察官から情報をとることに一生懸命になる。話をしてくれただけで「やった!」と喜び、情報が間違っていないかどうかという吟味はせずに記事を書く。こうした構造のなかでえん罪が発生します。
えん罪をつくり出すのは、基本的には捜査機関。警察であり、検察です。それを追認する裁判所。この3つの機関が一体となって無実の人を有罪としてきました。捜査機関からの情報をそのまま書いてしまうメディアも結果的にえん罪に加担しているわけです。
——メディアで働く人たちには、そのことに対する問題意識はないのでしょうか?
警察や検察を回っていて一番怖いのは、情報を共有するだけでなく、感情を共有することです。たとえば「こんな小さな女の子を殺すなんて、こいつはとんでもないヤツだ。許せない」「そうですよね」と話しているうちに、刑事と記者が感情を共有していくわけです。そして共に「有罪にしてきっちり刑を受けさせないとダメだ」と考えるようになる。本当に有罪なのかということに対しては何の疑問も抱かない。それが一番怖い。実際、あちこちでこうしたことが今も続いています。
もちろん、記者のなかにもぼくらのようなへそ曲がりがいて、「検察って本当にいつも正しいのか?」という視点をもっている人もいる。そういう連中がこつこつとえん罪を発掘しようとしていたりするんだけど、非常に難しい。
——「へそ曲がり」な記者が警察や検察に疑問をもった時、取材そのものが難しくなるということですか?
あからさまに取材を妨害することはなくとも、無視する、黙殺する、協力しないということはありますね。警察や検察だけでなく、記者が所属する会社としてもあまりやってほしくないとか。まあ、批判的な視点で取材をする時は相手がどこであっても難しいですけど。
——『報道は欠陥商品と疑え!』というタイトルの本を出されていますね。
新聞のニュースが最初からパーフェクトであるはずがないんです。時間の制約があるなかでとにかくニュースを出していかなきゃいけないし、偏見や差別観によってニュースに対する判断がガラッと変わってしまうこともある。判断ミスを犯す人間がつくっている商品。それがニュースです。読者はまず欠陥商品だと思いながらニュースを見ないと。「新聞やテレビはこう言ってるけど、本当は違うんじゃないの?」というぐらいでちょうどいい。
たとえばどの新聞でもテレビでも「総理は辞めるべきだ」という論調一色ということがありますよね。しょっちゅう世論調査をして、「これが世論だ、総理は辞めろというのが国民の声だ」と言ってるけど、本当にそうなのか。世論調査のもとにはメディアの報道がある。報道をもとに世論が形成されているわけですから、ぼくに言わせると世論はメディアによって作られ、コントロールされているわけです。メディアが火をつけて火事にして、メディアが消しに行く。マッチポンプですね。