部落問題ありのまま 最終回
2008/12/19
実はこの数年、部落解放運動も含めた市民運動に失望することが多かった。「差別を許さない」とか「人権を守ろう」とか言いながら、「あんたはどやねん」と突っ込みたくなるようなことを経験したし、見聞きもした。
もちろん、日常生活のなかには差別的な出来事など、いくらでもある。PTA活動では、私がシングルマザーだと知った保護者から「夜の生活はどうしてる の?」と真顔で訊かれて驚いた。仕事先で「経済的にも精神的にも苦しい母子家庭では子どもの虐待率が高いはずだ」と目の前で繰り返し主張されたこともあ る。その場にいた全員が、うちが母子家庭であることを知っていたが、みんな黙っているだけだった。
まあ、こんなことは珍しくもない。むしろライターの私にとっては「貴重なネタをありがとう」という感じだが、差別撤廃を謳う人たちが他人を差別するのは 笑えない。自分が差別しなくとも、目の前で起きている差別に無頓着な人、見て見ぬふりをする人、あるいは無自覚に権力を振り回す人・・・そんな人が集会で パネリストとして発言し、啓発や研修の講師を務めている。なんだかなぁ・・・。
もちろん、私のなかにも差別意識はある。人を傷つけることもある。もっといえば、傷つけてやりたいと思う ことすらある、恥ずかしい人間だ。こんなどろどろした感情は、生半可な啓発や研修で消えるものではない。私自身は、どろどろした感情を自覚し、人との関係 のなかで傷つき傷つけられながら、少しずつでも成長していけたらと考えている。
それでは人権運動は必要ないのかといえば、そうは思わない。ただ、常に「自分たちのありようはどうなのか?」と自らをチェックする意識や仕組みがなけれ ば、社会や、運動に参加していない人からの共感や信頼は得られないと思うのだ。たとえば、2006年の飛鳥会事件をきっかけに部落解放同盟への逆風が吹き 荒れた。メディアの報道の視点、無知で無責任なコメンテーターの言いっぱなしの発言はひどかった。しかし市民の側から「間違いは間違いとして、解放同盟が これまで地道に取り組んできたことは評価しよう」という声はほとんどあがらなかった。解放同盟は、その現実をきちんと受け止め、情報発信のあり方や市民と のつながり方を改善していったほうがいいだろう。
ところで、こんな私にも年に何度か講演依頼がある。講演で話すのは自分の体験と、そこから考えたり学んだりしたことに限っている。そんな話のなかで、どこでも参加者がビシッと注目し、何人もが力強くうなずくエピソードがある。解放同盟と仕事を始めたころの話だ。
「ふらっと」をきっかけに解放同盟の人たちと出会い、一緒に仕事をすることになった。もちろん部落解放同 盟の名は知っていたし、メディアを通じて強面のイメージがあったので、内心ワクワクしていた。不謹慎なようだが、「いったい部落解放同盟とはどんなところ で、どんな人たちがいるのだろう」と興味津々だった。
まあ、会議に出た人たちは確かに少々、強面ではあった。とにかく、にこりともしない。「この度はお世話になります」「いや、こちらこそ」といった言葉を にこやかに交わす、日頃の取材や会議でよくあるあいさつがないのは印象的だった。その後も、会議や打ち合わせで顔を合わせると、私はまず「こんにちは」と あいさつするのに、いつも「あ」とか「う」とか言うだけで、まともに顔も上げようとしなかった。
ずっと後になって、気安く話せる空気ができた時に「最初の頃はあいさつしても無視されました。あいさつぐらいは気持ちよくしましょうよー」と言ってみ た。すると真顔で「なんでニコニコしないとあかんの」と言うではないか。これには驚いた。後で「人見知りするんです」と自分でフォローしていたが。
ある時、その人がふと「本音を話してくれる人はなかなかいない」と漏らしたことがある。なんて寂しい言葉なんだろうと思いながら、本音を言わせない空気を解放同盟側が作ってきたという側面もあるのではないかとも思う。