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特集



偏屈でも、いいかな? 最終回

2008/07/25


鳥のように自由に… --「小さな世界」を考える 部落問題の「内」と「外」

数年前、ある高校教師から次のような話を聞いた。授業中に騒がしい生徒がいた。教師が注意したところ、その生徒が「先生、俺が騒ぐのは部落出身者やからや」と言ったという。
「こういう生徒に、どう接したらいいんでしょうか?」
その教師が私に意見を求めるので「それはシバかなあかんでしょう」と即答した。そのあと、私はこう続けた。
「その生徒が騒ぐことと彼の出自が関係あるんでしょうか。おそらくないでしょう。仮にあったとして、それを理由にハメをはずすことが許されるわけではありません。だから、思い悩むことなくシバいてください」
中学時代に何度も教師に殴られたことがある私は、暴力には一応反対である。しかし、殴るに値する人間はいるのではないか(とはいえ、ほんまにシバいたらア カンのですが)。その生徒は、自分が部落出身だと言えば教師はビビると思ったのだろう。部落の“利用価値”を知っているのである。そのゆがんだ心根が、ゆ がんだ性格の私でも許せない。
部落解放運動はさまざまな困難な情況や人間を変えてきた。しかし、若くして早くも堕落した若者をも生み出してしまった。情けない。そして腹立たしい。
劣悪な生活実態がどれだけ変わろうと、何でもかんでも部落差別の結果にし、また開き直る人間がいる。部落外の人が部落民を差別するのは座視できないが、部 落民が出自や立場を悪用するのも同じように問題である。部落問題は部落外だけではなく、部落内の問題でもある。

どの世界も閉鎖的

いまどき、どこに生まれ育ったかを差別する基準にする人は、「小さな世界」で生きてんなあと私は思う。けれど、差別される側も同じように「小さな世界」を築いてしまいがちだ。
以前、「恋愛・結婚は絶対、同じ在日朝鮮人でないとダメです!」と言い切る女性を取材したことがある。「たとえば好きになった人がたまたま日本人で、そ の人がどんなにかっこよくて、ええ人でも?」という私の質問に「はい、ダメです!」という明快な答え。その女性は、私の好きな宮沢りえに似ていて性格もよ かった。私は思い切って「ボクでもダメですか?」と聞こうと思ったが、聞かなくても答えはわかっているのでやめた。私の場合、在日朝鮮人でないことに加え て偏屈でもあるので、ますます見込みはない。
マイノリティ同士がお互いをわかりあえると考えるのは、部落出身の私にも理解できる。でもそればかりに気を取られていると、自分の世界を狭くしかねない。 「小さな世界」という意味では、仕事が終わっても、毎日のように同僚と酒を飲みながら、会社や上司の愚痴を言い合っているオッサン連中とあまり変わらな い。余計なお世話だが、もっと会社以外の人と付き合いなさいよ、と言いたくなる。
部落問題を取材していて、あるいはその関係者と接していて、部落の閉鎖性、視野の狭さに閉口することがある。話題はもっぱら部落問題だけ、業界内のつまら ない噂話で盛り上がる、部落差別には反対だが他の差別はしまくる、またそのことに気づいていない、大昔の被差別体験を自慢話をするかのように話す、あんた にはわからんやろけど・・と要らぬ壁をつくる、部落問題が世の中の関心事だと思いこんでいる、特定運動団体の過失にしか興味がない、朝から酒臭い・・・。 あっ、最後は私でした。
まあこういう人たちは40代以上であることが多い。では、それ以下の若者はどうか。自分の出自を自覚するのはいいことだと思うけれど、こだわり過ぎると視野狭窄におちいってしまいかねない。
部落に生まれたということで、差別されることばかりを考えている人がいる。部落解放運動が〈被差別〉を強調し、恐怖心をあおるからだ。交通事故を気にして 家の中ばかりにいるようなものである。差別におびえるあまり、劣等感にさいなまれたり卑屈になったりするようでは、自分で自分の可能性をせばめかねない。 世間知らずでひ弱な若い部落民が増えたような気がするのは私だけだろうか。
無論、「小さな世界」はどの業界、組織にもある。部落問題業界に限った話ではない。しかし、部落の場合、差別されてきた歴史があるだけに、より凝り固まって偏狭になりかねない。
そういう意味では、他のマイノリティも、そしてどの業界も同じである。どんな問題を取材していても、あ、部落と同じやなあ、小さな世界やなあと思うことが よくある。だから私は部落の閉鎖性だけを強調したいわけではない。私達がどんな世界に生きているのか、これからどう生きるのかを考えないと、いつまでも 「小さな世界」の住民で終わってしまう。

今より小さくならない

えらそうなことを書いてるお前はどやねん! お叱りの声が聞こえてきそうである。私はけっして「大きな世界」で生きているわけではない。テレビのプロ野球 中継を見ながら、焼酎の水割りをグビグビ飲むのが大好きな小市民である(我ながらわかりやすい!)。そんな小さな人間ではあるが、自分が住んでいるのが 「小さな世界」であることは自覚しているつもりだ。なんたって「小さな世界」の部落問題をテーマにしているのだ。だからこそ私は、今より小さくならないた めに、さまざまな人に会い、旅をし、本を読み、音楽を聞き、料理を味わい、酒を飲むのである。酒は関係ないか・・・。
いかに「小さな世界」から脱するかは、マイノリティ、マジョリティを問わず普遍的なテーマである。
島崎藤村作の『破戒』(1906年)は、部落出身の青年教師・瀬川丑松(うしまつ)が、出自を他言するなという父親の戒めを破って教え子に打ち明け、職を 辞してアメリカに旅立つ話である。丑松が渡米するのは部落差別から逃げることではないかという見方もあって、この作品は部落関係者の間ではあまり評価され てこなかった。
この小説が、昨年(2007年)マンガ化された(『まんがで読破 破戒』、企画/漫画・バラエティ・アートワークス、イースト・プレス刊)。主人公の丑松 が恋い焦がれるお志保が、宮沢りえに似ていて、とてもかわいい。それはどうでもいい。丑松が「穢多」であることを知らせに来た嫌味な男に、お志保がキリっ とした表情で言い返す。
「士族とか華族とか平民とか・・・・・・/私の知ったことじゃないですよ」
「瀬川さんは瀬川さんです。/卑賤(いや)しいのはあなたです!」
その通り! こんなシーンは原作にはない。このマンガを映画・テレビドラマ化するなら、お志保は宮沢りえに演じてほしい。なんなら丑松は、この私がやってもいい。
さてこのマンガ、これまた原作とは違い、教師を辞めた丑松が部落差別と闘うべく故郷を離れるシーンがある。丑松の最後のセリフはこうだ。
「阿爺(おとっ)さん――・・・/いまの僕は/鳥のように自由だ」
故郷の「小さな世界」を離れ、新天地でこれまでとは違った生き方をすることを暗示している。

“文化的遺産”を手に羽ばたこう!

『破戒』の出版から1世紀以上がたった。21世紀の現在、部落出身者は、進学や就職で海外に雄飛できる時代になった。そんな若い人を私は何人も知っている。丑松のように部落差別から逃げるのではなく、自分の可能性を試すために海を渡れるようになったのである。
アフリカン・アメリカン、いわゆる黒人の若い女性歌手が、いつだったかテレビのインタビューで、自らの出自を語る中で“heritage”という言葉を 使っていた。この言葉には地位、境遇のほかに文化的遺産とか相続財産という意味もある。ちなみに世界遺産は“world heritage”。
かっこいいねー。私は部落出身であることを自分の文化的遺産だとはあまり思っていないが、いつかどこかで一度は言ってみたい気もする。
部落は「小さな世界」ではあるが、おもしろい人物もいるし、おいしい食べ物もある。それらの文化的遺産があるから、なんだかんだいいながら、私はこのテーマを追いかけている。
どんな人生を歩むか。そこに部落差別の影がない時代になりつつある。時には自分の出自や丑松を思い出して、鳥のように自由に羽ばたこうではないか。

◇      ◇      ◇      ◇

 

 

「そんなおもろない文章、読みとうないぞ!」
お叱りの声もなく(聞こえなかっただけ?)、1年間の連載を続けることができました。これにて「偏屈でも、いいかな?」予定終了です。ありがとうございました。
(幕が下りる)