偏屈でも、いいかな? その5
2008/05/23
「両側から超える」というスローガンが、部落問題にかかわる人たちの間で言われるようになって久しい。言うまでもなく「両側」とは、差別する側とされる側である。もとは詩人の金時鐘さんが、在日朝鮮人と日本人の両者が互いに歩み寄ることの重要性を説いた言葉らしい。
両側ねえ・・・この言葉が部落問題で言われるたびに私は考え込む。部落差別が以前に比べて厳しくなくなってきている今、両側なんてあるんかいな、と思うの である。部落差別がない、と言っているわけではない。あるのだけれど、どこが部落か、誰が部落民かを気にしない人もかなりいるよ、と言いたいのである。
部落差別は、地域や世代、個人によって差がある。一般的にいって若い人は部落問題の知識がそんなにない。「な?に、それー。へー、そんなことがまだあるん だ?。ふーん」てな調子である。今の10代20代の過半数、いや大多数がそんな感じだと言っていい。彼らにとって両側は存在しないのである。
で もって「両側」とか言ってる人が、学校の教師や大学の先生だったりなんかすると、「あーたねー、ほんっとにちゃんと学生と話してるの?」とデヴィ夫人の口 調で問いただしたくなる。「そんなの関係ないもーん。差別なんかしてないもーん。だって知らないんだもーん」と思っている若者に何を伝えるか、そこがモン ダイなのである。
7、8年前、10代の若者と一緒に屠場を見学した時のこと。地元の人が案内してくれたのだが、屠場労働者がいかに差別を受けて きたかを、くどいほど言うのである。「くどい」というのは私の感じ方である。だが、そう感じたのは私だけでなかった。見学した若者のひとりは感想を聞かれ て「この仕事、かっこいい!」とだけ言った。私もまったく同感だった。
屠場労働はかっこいい――そのように受け取らない人がいることは確かであ る。だからこそ被差別の歴史を学ぶ必要がある。しかし、これでもか、これでもか、と言わんばかりの被差別の強調は、私にはなんだか卑屈な感じがしないでも なかった。さりげなく、なおかつ心に残るように説明ができないものか、と思った。みんながみんな屠場や部落に忌避感をもっているわけではないのである。
ちかごろ私は、部落差別が残る背景には、怪奇現象と通じるものがあるのではないかと考えるようになった。心霊スポットと呼ばれる場所がある。殺人や不慮の 事故などがあった場所に、いろんな物語がくっついて恐怖の空間になる。この心霊スポットと、「あそこは昔、賤民が住んでおってな・・・」と代々伝えられて きた部落差別は、重なるところがあるように思うのだ。
人は時には、得体の知れないものに惑わされることがある。2007年12月、山梨県内に拠点を置く宗教色の強い有限会社「神世界」が、東京都内の高級マンションなどで、運勢・姓名判断や祈願、除霊と称して法外な金銭を詐取したとして捜索を受けた。
新聞報道によると、相談に訪れた40代のある男性は、神世界の幹部にこう言われたという。
「あなたの会社は戦国時代は首切り場だった。そこで処刑された人の霊が地縛霊としてさまよっています。業績アップをするためには特別祈願が必要で、最低200万円以上、最高で7000万円かかる場合もあります」
で、この男性、約1カ月後に除霊のために現金490万円を払ったらしい(『朝日新聞』朝刊07年12月20日付け)。
んなアホな!という話である。仮にその会社がある場所が、戦国時代は首切り場だったとして(何か証拠でもあるのだろうか?)、それがどないしてんという話 である。そんなことを言えば、戦(いくさ)やら戦災やらで亡くなった人のスポットはいくらでもある。地縛霊がそこらじゅうでウロウロしてまっせ!
でも、こんな話を信じる人がいるのだ。だからこそ霊感商法が成り立っている。この記事を読んで私は、こんな話に引っかかる人だったら、部落差別をするかもしれんなあ?と思ったものである。
「あなたの会社がある場所は、その昔、ケガラワシイ賤民が住んでいました。特別なお祓いが必要です!」
なんて言われたら、「特別除霊、大至急でお願いします」と即答するかもしれない。
幽霊がいると思う人は、霊的なものに敏感になる(その逆も言える)。他人の出目や家柄を気にする人は、誰が部落民か、どこが部落かを気にしがちだ。どちら も、気になる人はとことん気になる。気にならない人はまったく無関心。霊感商法と部落差別はけっこう近いところにある。
やっぱり部落差別は怪奇現象だ。
死んだ祖母は実家を新築するとき、鬼門の方角にどの部屋を配置するかを非常に気にしていた。「そんなこと言うてる時代ちゃう!」と父が言ったのでうやむや になった。私も父と同様、気にならない。都会は住宅事情が悪いので、鬼門にどの部屋を・・・などというゼイタクなことは言ってられない。大阪市内に住む私 は毎晩、北枕で寝ている。「死人かよ!」と自分でツッコミを入れたいくらいだ。ある人から見たら、私は信じられないほど縁起の悪い男なのかもしれない。
時代は変わる(©ボブ・ディラン)。ただし、前の時代にひきずられながら。霊感商法やあやしげなスピリチュアルが繁盛するのは、理屈では割り切れない“何 か”に恐れをいだく人がいるからだろう。だからこそ時代遅れの部落差別も残っている。差別が続く“残り火”があるのだ。
ただ、残り火はあるけれども、部落問題に対する関心はなくなってきてもいる。これは差別がなくなってきていることと裏表の関係にある。
数年前、ある地方で部落の青年を対象に講演することになった。
「10人くらいは来ると思うんですが・・・」
主催者が言う。ところが開演時間前に来たのは、たったひとりだけだった。30分待った。「今日はやめようか」と言いだしかけたころ、もうひとりが来て、ようやく講演開始と相成った。
数カ月前、大阪市内の駅前のとある大きな部落で、10回の部落問題連続講座をおこなった。定員40人の募集で、参加者はなんとたったの4人だけだった。地 元の若者はひとりもいなかった。途中から1人抜け、最後は3人になった。私は涙目になりながら講義を続けた(ウソです)。
愚痴を言っているので はない。講師である私の知名度の低さ、存在の地味さ&軽さを差し引いても、部落問題に対する関心の低さは、他の人権問題と比べても断トツだと思う。部落民 でさえ部落問題に関心をもたなくなっている。私は、部落はもう解放されてるんじゃないの、と思うことが時々ある。
部落問題に対するさまざまな取 り組みの成果によって、差別と被差別の両側を隔てる壁が低くなってきた。同時に、どんな問題も、「なにそれ、興味ねーよ、関係ないよ」で済ませる人が増え ているような気がする。でも、どんな問題にも興味を失わない方がいいのではないか、と怠惰で偏屈な私でも思うのである。
部落差別に関して、超えるべき両側がなくなりつつある今、どんな社会をめざすのかを自分自身の頭と言葉で考えるべき時にきている。
実は無関心という壁が一番恐ろしいのだ。