偏屈でも、いいかな? その4
2008/02/22
ごきげんいかがですか? 今回は啓発事業、特に人権問題講演会について思うところを書きます。せっかくですから講演会形式にしてみることにします。読者に 聴衆になってもらって、不肖わたくしが講師を務めます。よろしくお願いします(拍手)。中途半端な拍手、ありがとうございます。
部落問題をテーマにした本を書いているからでしょうか、行政や各種団体の啓発事業の講師として呼ばれることがあります。ありがたいことです。しかしそん な立場であるにもかかわらず、講演会ってホントに意味があるの? と思うことがたびたびあります。
「去年の講演会の講師は誰でした?」
ときどき主催者に聞いてみます。講師の名前をおぼえている人は稀です。性別を尋ねても思い出せない人が珍しくありません。名前や性別でさえそれですか ら、内容は言うに及びません。人権問題講演会の多くは、担当者および参加者にこれといった印象や記憶を残していないのかもしれません。私の講演もそうなの かと考えると、しゃべるのが怖くなります。
人権問題講演会は惰性で開催されているのではないか。私はそう考えるようになりました。年中行事みたいなもので、内容やあり方は問われません。年末恒例の NHK紅白歌合戦と同じです。なぜ、男と女に分かれて競い合うのか、なぜ美川憲一が白組なのか・・・。そんな疑問はどうでもいいのです。そういえば、昨年 (2007年)の紅白では、美川憲一のバックダンサーを「どんだけー」のIKKOと「マツケンサンバII」の振り付け師、真島茂樹が務めていました。もう 何がなんだかわかりません。
それはさておき、人権問題講演会、とりわけ部落問題のそれの進め方は、だいたいどこも同じです。最初に自治体や団体の幹部のあいさつがあります。
「21世紀は人権の世紀と申します・・・同和問題は国民的課題でありまして・・・」
あらかじめ用意された文章を読みあげます。会場を見渡すと、耳を傾けている人はほとんどいません。「私」という一人称を抜いて国民的課題を語っても、説 得力はありません。始まったばかりなのに、参加者の中にはすでに居眠りしている人もいます。
私はこの最初のあいさつはなくてもいい、いや、ないほうがいいと考えています。その多くが聞くべき内容がない、というだけではありません。そのあいさつ によって、人権問題講演会独特のただでさえ堅苦しい雰囲気が、さらに凍りついたような空気になってしまうのです。気温がぐんぐん下がる感じです。どこまで 下げんねん、凍傷になるわ、というくらい寒くなります。そのあとは、しゃべりにくくてしょうがないのです。
次は講師紹介です。
「本日はご多忙の中、角岡先生にお越しいただき・・・部落差別の実態をご本人の体験から聞かせていただけるものと期待しております・・・」
またもや決まり文句が続きます。「ご多忙の中」と言われますが、暇な時に行くこともあるんです。それに被差別経験があまりないので体験談を! と期待されても困るのです。
講師紹介の内容は、あらかじめ配布された資料にすべて書かれてあるので、これもなくてもいいと思います。そういえばこの前は「本日は偏屈の角岡さんをお 呼びしております!」と紹介されてしまいました。この連載を読んでおられたのでしょうが、あらためて人前で「偏屈の・・・」と紹介されると気恥ずかしいも のです。恥ずかしがり屋の私は、思わずうつむいてしまいました。
講演が終わると、主催者側の謝辞があります。私の話をまとめた上で感想を語るのですが、そんなこと話しましたっけ? と言いたくなるような強引かつ的外れな整理をする人がいます。
たとえば私は部落問題の講演で「部落差別はいまだ厳しい」という話だけをするわけではありません。ずいぶんなくなってきているけれど、まだ残ってもい る。それを見ることも必要では・・・というようなことを述べます。それを「いまだ厳しい」の一言だけで整理されると「それは違うんです・・・」と言いたく なります。どの講演もそのようにまとめてきたのではないでしょうか。
このまとめも要らないと思うのです。講演をどう感じたか、とらえたかは人それぞれであって、誰かが整理する必要はありません。
謝辞の最後の言葉にも決まり文句が待ち受けています。
「今日のお話を各自職場なり家庭なりに持ち帰って、話し合っていただきたいと思います」
本当にそんなことやってる人がいるんですかね。いや、いないとは思いませんが、お決まりのセリフというのが偏屈の私として違和感があります。家庭で話し 合う人は言われなくてもするし、しない人はしない。また、人に言われてすることでもないと思うのです。もちろん、議論するのはいいことなんですけどね。
講演会の当日に、主催者・担当者と話をする機会があります。本当に部落問題に関心があるのかな? と言いたくなる人がいます。私の本を一冊も読んでいな い人も珍しくない。短時間でも話をすれば、その人が部落問題に関心があるのか、講師の本を読んでいるのかは、すぐにわかります。仮にも担当者なら、話し手 の本ぐらいは読んでおいてほしいものです。でないと、講師依頼もできないと思うのです。
ところが私のことをほとんど知らない人が依頼してくることがあります。担当者から連絡があった時、「講演はどんな内容の話がいいですか?」と聞くんです が、しどろもどろになる人がいます。口下手というレベルではなく、何も考えてないんです。「ボクじゃなくてもいいんじゃないですか?」と言いたくなりま す。逆に私の本を丁寧に読んだ上で「こんな話を聞きたい、聞かせたい」と手紙で書いてくる方もおられます。講演会にかける熱意が伝わってきます。
主催者として、どんなことを聞きたいのか、講師を通して何を伝えたいのか――。これなくして啓発事業は成り立たないと思うのです。何も考えてない人に 限って講師料をこちらから聞かなければ言わない。中には聞いても知らない人がいます。日ハムのヒルマン元監督ではありませんが「シンジラレナーイ」と言い たくなります。お金の話はしない方がいいと思っている人が多いようですが(ほとんどと言っても過言ではありません)、仕事として依頼する限りはきちんと伝 えるべきでしょう。
啓発事業における講演会という手法は、水平社の時代からあります。差別行為に対して糾弾した後、もっと部落問題を勉強して下さい、ということで活動家なんかが講師を務めるわけです。こういうことを90年近くもやってきました。
しかし、これだけいろんなメディアがある時世に、1時間半もの講演は(だいたいこれぐらいが相場になっています)聞く方もしゃべる方もつらいわけです。 テレビなんか十分かそこらでCMが入ります。1時間半も人の話をじっと聞くなんてことは滅多にありませんからね。それでもって話がつまらなかったら、聴衆 は寝てしまいます。
私がしゃべる側として気をつけていることは、寝させないこと、に尽きます。「寝た子を起こす」のが私の部落問題に対するスタンスです。それが寝られてし まったらしゃれにもなりません。でもここだけの話、うちのオカンは私が地元で講演した時は、いつも後半は寝てるんですよね・・・。
私は睡眠防止のために、聴衆がだんだんウトウトしはじめるころに部落の食文化を味わう、なんてことをよくやりました。あれは「部落を味わう」という目的と、寝た子を起こす目論見があったんですね。
あと、やはり講演は内容がないとダメですね。まあえらそうに! 自分でもそう思います。でも、それはあたりまえのことです。おもしろくない映画は寝てし まいますもの。私は「人権感覚を磨きましょう」とか「人権文化の創造を」とか、部落問題の講師が言いそうなことは絶対口にしません。わざわざ足を運んでも らっている人には何か記憶や印象に残るものを持って帰ってもらいたい。たとえば言葉や考え方や味覚などです。
自戒を込めて言いますが、とにかく講演会は、主催者側も講師も内容、進め方を考えないとまずいと思います。これまでこうやってきた。こうやっとけば無難 ――。これが人権問題、とりわけ部落問題講演会の悪しき形式主義を継続させてきた根源だと思います。これを変えない限り・・・
え? お前の話も眠たい? 時間もない? 失礼しました。ご静聴ありがとうございました(まばらな拍手の中、退場)。