偏屈でも、いいかな? その3
2007/12/20
「私も出身者ですけど、それをあえて名乗る必要はないと思うんですよねえ・・・」
先日、ある会合の後で、年輩の男性が私にそう語りかけてきた。その男性は、中学校の教員で、部落問題学習を進める団体の要職にも就いていた。たぶんこの人は、自分の出自について言わないようにしてきたんだろうなあと思った。
しかし、あとでよくよく考えてみると、その男性の姓は、部落によくあるものだった。わざわざ告知をしなくても、わかる人にはわかっちゃうのである。隠しているつもりでも、周りにはバレバレというのは、部落問題に限らずよくあることだ。
部落出身であることを言いたくない、別に言わなくても、という気持ちは私にもある。地方紙に勤務していたころは、周囲には言ってなかった。とりたてて周知する必要もなかった。
基本的に成り行きで生きている私は、必要に迫られて今は部落民を名乗っている。必要に迫られて、というのは、『被差別部落の青春』というちょっと恥ずかしいタイトルの本を出した時に、自分の立場を書くべきかどうか決めなければならなかったのである。
結局、出自についても記述することにしたのだが、ためらいがないことはなかった。ひとつは部落民であることがバレてしまうこと(あたりまえだが)。あとひとつは「出身者やからここまで書けるんや」と言われたら腹が立つなあと考えていたからである。
で、出自を書いてどうなったか。前者は告知したところで、これといった問題はなかった。後者は、それはその通りやんか、と思い直すとどうでもよくなっ た。そもそも実力がなければ文章は書けないのだから、気にする必要はないのである(と言うほど大した才能はないんだけどね)。
いったん名乗っちゃうと、あとは楽チンである。バレるかも、という心配はない。ましてやこれから隠す必要もない。
部落民を名乗る意味について、私は次のように考えている。一般的に言って、ふだんは名乗る機会はほとんどない。日常的に差別に出遭うわけでもない。で も、少なくとも一生に一回は、言うべき時があるのではないか。結婚する時は、「なんで言わなかった」と後でもめたりすることもあるので要注意だ。これは部 落差別だ、自分がひどく傷つけられている、と思った時には、嫌でも言わなければならないかもしれない。繰り返すが、それは人生においてそうあるわけではな い(あくまでも一般的な話)。コレという時に言う。それでいいのではないか。
自分が部落出身者であることを周囲の人に言わなければならないんじゃないかとガチガチに思い込んでいる人がいる。誰が部落民か、気にする人はいるけど (そういう人が差別するわけだが)、気にならない人にとっては“どうでもいい話”である。今は後者のほうが圧倒的に多い。気にしすぎるのも、逆に気に留め なさすぎるのも、どうかと思う。頭の片隅くらいには置いておきたい。
前回、私は部落問題の解決について、次のように書いた。
「私は仮に部落民を名乗っても、賤視・排除されないことである、と考える。ハンセン病差別の解決とは、患者・元患者が名乗っても差別されないことではないだろうか。決して彼らがこの世からいなくなることではない。同じことが、あらゆるマイノリティの問題にも言える」
昨年(2006年)10月に出演したNHKの『クローズアップ現代』(「揺れる同和行政」)でも、私は同じような主旨のことを発言した。
これに対して、フリージャーナリストの一ノ宮美成氏が次のように反論している。
この発言を聞くかぎりでは、角岡氏は「部落民」が未来永劫存在し続けると理解しているようだ。この考え方では、「部落民」とそうでない住民とは永遠に平行 線を辿ることになる。そもそも部落差別とは、封建的身分制度の残滓である。社会の発展とともに解消し、やがてなくなっていくものである。実際、現在はその 過程にある。角岡氏の考え方では、部落の解放など永遠にありえないことになる。(中略)また角岡氏は、同性愛やハンセン病への偏見・差別と「部落差別」と を同質のものと捉えているが、まったく異質のものである。(『大阪同和帝国の正体』、宝島社、2007年)
私は部落民が未来永劫存在し続けると考えていないし、そのようなことを言ったことも書いたこともない。部落民と非部落民の通婚は増えたし、部落人口の流出 入は激しく、自他共に認める部落民は少なくなってきている。これからも部落民は減少し続けるだろう。ではなぜ、それに抗うかのように私は部落民を名乗るのか。
私は部落問題の解決だけを求めているわけではない。一ノ宮氏の指摘にあるように、私は部落差別と同性愛や ハンセン病への偏見・差別が同質である、と捉えていない(あたりまえである)。しかし、名乗るという行為は、他の問題も含めて差別解消という点で有効な手 段であると考えている。そのことと未来永劫、部落民が存在し続けるか否かは、まったく別問題だ。
部落民を名乗る、あるいは自覚することが大事であると私が考えるのは、歴史を通して何を考え、どんな社会をつくっていくか、というテーマと通底しているからである。
日本は被爆国である。であるからこそ、核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない、という非核三原則を貫いてきた。アジアを侵略した歴史があるからこ そ、戦争の放棄や戦力の不保持を明記した憲法九条を持つにいたった(たとえアメリカ製であっても)。核兵器を持ったら便利だよね、侵略のための軍隊も必要 だよね、という話にはならないはずだ。
それと部落問題がどう関係あるのか。言うまでもなく、部落民が部落差別を受けないことが部落問題の解決である。けれども、部落差別を受けなくなった部落 民が、同性愛者やハンセン病の患者や元患者、その他の人々に対して差別するようなことがあれば、問題であろう。実際、私も含めて、差別することからは解放 されていない。部落民は差別されることだけではなく、差別することも考えなければならない。それは自他共に認める部落民も、部落民かどうかあいまいになり つつある者にも言えることである。
私たち、差別受けてます、というだけではなく、自分が極力、差別しないための方便として部落民を自覚し、名乗る必要があると私は考えている。
思い切って言えば、大方の若い部落民にとって、部落差別はもはやリアリティがない。だからこそ部落解放運動に参加する者が年々少なくなりつつある。部落 民が部落問題だけを考えればいい時代ではなくなった。他者とどうかかわっていくか、どんな社会をつくっていくかを、自分の足元を見ながら考える必要があ る、と私は考えている。
ご理解いただけましたでしょうか、一ノ宮さん。