部落問題ありのまま vol.2
2007/11/02
生まれた所や皮膚や目の色で
いったいこの僕の何がわかるというのだろう
運転手さんそのバスに
僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問いつめる
まぶしいほど青い空の真下で
ブルーハーツの『青空』だ。聞き覚えのある歌だったが歌詞は知らなかった。画面に映し出される歌詞を追いながら、みんなと一緒に歌っているうちに、なぜか涙があふれてきた。
部外者である私がどう受け止められたのかは、よくわからない。みんなが肌感覚でわかり合える運動体内部の力関係や人間関係の機微が私にはピンとこないし、 みんなから見ればやっぱり10歳ばかり年上の「よその人」なのかもしれない。ただ、私自身は、月に一度の合宿研修で、少しずつ距離が縮まっていったように 感じている。講義のなかで意見を出し合い、調整し、発表しあう。講義の合間に雑談し、夕食の時にはお酒を飲んで盛り上がり、誰かの部屋で夜中まで議論し た。時にはみんなが下を向いて黙りこくるという気まずい時間を過ごしたりもした。
それぞれ大なり小なり「人権について系統立てて学びたい」などといった志望動機をもって集まってきたけれども、地元の事情も違えば仕事も違う。鳥取や三 重、東京から参加したメンバーもいた。たとえ大阪の部落であっても、部落の背景や規模、運動の歴史、支部のリーダーの資質や性格などによって、解放運動に 取り組む姿勢や現在の運動体へのスタンス、まして一人ひとりの意識などは千差万別、大阪風に言うと「バランバラン」なのだ。それをしみじみと実感した。
だけど琵琶湖のほとりの沖縄料理屋で、みんなで『青空』を歌っているうちに、なんともいえない一体感に包まれたのだ。『青空』が部落の青年の歌として作 られたかどうかは知らない。でも自分たちの歌だと思っている部落の青年がいる。そして、転校生のいじめられっ子で、どこにいても寄る辺なさを感じ続けてき た私の歌でもあった。恥ずかしいぐらい心が揺さぶられて、涙はなかなか止まらなかった。
とまあ、そんな一件もあり、「部落の青年たちと出会いたい」などというカッコつけの理屈はどこかに吹っ飛んで、いつの間にか塾のみんなは私にとって本当 に“同級生”になっていった。修了して1年が過ぎた今も、どこかで顔を合わせたらすごくなつかしくてうれしい。遠方で、なかなか連絡がとれない人はどうし ているのかと心配だ。
人とつながるって、こういうことなんじゃないかと思う。同じ時間を過ごして、一緒にご飯を食べて、ええかげんなところもスッピンの顔も酒癖の悪いところも 見せ合っていくなかで(全部私のことですが)、弱みがちらっと見える時がある。何気ないふうにポロッと出されるしんどさがある。その時、相手を取り巻く状 況は「○○問題」という他人事じゃなく、目の前の仲間を苦しめる差別の現実として立ち現れる。胸が痛み、自分を振り返る。「○○問題」が「自分の問題」に なる瞬間だ。知識も理屈も大事だけれど、これが人権や差別を考える時の基本ではないだろうか。
同じようなことを実感している人に出会った。大阪府茨木市でPTA協議会(以下、市P)の会長を務めている安孫子浩子さん。2005年、仲間うちから出た差別発言をきっかけに部落問題に真正面から取り組んだ。