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特集



偏屈でも、いいかな? その2

2007/08/30


「きょうだいはいますか?」と聞いてはいけない?

『筑紫哲也のNEWS23』(TBS系列)というテレビ番組で、渡辺真理がキャスターをしていたころだから、かなり前の話になる。ある日の放送で、突然、家族を殺された遺族の特集を放映していた。
「きょうだいはいますか? そう聞かれるのがとてもつらいんです」
ある遺族がそのような意味のことを語っていた。CMに入る前のまとめで、渡辺が次のように語った。
「これからは人に『きょうだいはいますか?』と聞かないようにします」
そういう話かよ! 私は画面にひとり問い掛けていた。遺族の気持ちは、わからないでもない。いや、理解すべきである。しかし、遺族は本当に渡辺のような“気遣い”を望んでいるのだろうか。
人には触れられたくない話題がある。無論、それは人によって違う。しかし、よほどデリカシーのない質問でない限り、相手にさまざまな質問をすることは悪いことではないはずだ。
渡辺のような“気遣い”をすれば、「どちらにお住まいですか?」という質問もできなくなる。聞かれた人が部落民で、住所を知られたくなかったらどうする のだ? カップルに対して「お子さんは?」という質問も禁物である。ふたりのうちどちらか、あるいはふたりとも子供ができない体質であるかもしれないからだ。

プライバシーとは何か?・・

職業柄、人に比べて本をよく読む。著者の経歴を見る。生年を書いてない人が少なくない。特に女性に多い。大学教員としか書いてない人もいる。教員には非常 勤講師から学長までいる。これらのヒエラルキーを否定しているつもりなのだろうが、著者が何歳でどんな時代を過ごし、今はどういう立場にある人なのか、私 は気になる。そもそも年齢や肩書きは、恥じるものでも隠すものでもあるまい(年齢や性別、肩書きによる差別が厳然とあることを考慮に入れても)。
言うまでもなく、名前をはじめ出身・本籍地、住所、学歴などは個人情報にかかわることである。最近はこれらの情報の取り扱いをめぐる議論がかまびすしい。そのきっかけとなったのが、2005年の個人情報保護法の施行である。
たとえば事件・事故や大地震などの災害で、被害者の個人名を報道することの是非が論じられるようになった。公務員の犯罪でさえ名前が伏せられるケースもでてきた。いずれもこれまでにはなかったことである。
何が個人情報で、何がプライバシーにあたるのか、きわめて曖昧で、恣意的に乱用されているとしか思えない。そもそもこの国は、プライバシーという概念をきちんと考えてこなかったのではないだろうか。
私の個人的な経験を書こう。半年ほど前のことである。仕事で取り引きがあり、それまで何度もやりとりしていたAさんにメールを送った。すると、すぐにA さんの上司から「Aは今日、親族の葬儀で出勤しておりません」との返信があった。Aさんが上司にメールを見ておいて下さい、と頼んでいたのかもしれない。 あるいは勝手に上司が検閲していたのかもしれない。どちらにしても私にとっては驚愕&恐怖だった。いきなり第三者が登場してきたのである。それ以降私は、 仕事でもプライベートでも、なるべくメールを使わないようにしている。
部落問題をテーマに講演をすることがある。会場に行くとビデオカメラがこちらを向いている。「聞いてないよー!」。ダチョウ倶楽部じゃないが、そう叫び たくなる(古いギャグで、ドーモスイマセン)。講演会終了後、講演録ができました、と送ってきたこともあった。もし私が上島竜兵(ダチョウ倶楽部)だった ら、帽子を床にたたきつけて「訴えてやる!」と怒鳴っているところだ。私は講演でプライベートな話もするが、それは会場にいる聴衆に向けてであり、不特定 多数の読者に対するものではない。だから私は、講演録のたぐいはすべてお断りしている。たとえ私のつまらない話であっても、それがプライバシーや著作権に かかわることが、主催者はまったくわかっていない。
最近読んだ『方向音痴の研究』(日垣隆、WAC)に、プライバシーに関するおもしろい話が載っていた。地図製作の開発者が、日本の住宅地図の特異性について次のように語っている。( )内は私の補足である。

実は海外には日本のように詳しい住宅地図などありませんでした。そもそも表札や郵便受けを必ずつけるという文化がない。ですから、どこに誰が住んでいるか 一軒一軒確かめることが非常に難しいのです。もうずいぶん前のことですけれども、ドイツでは国勢調査に際して一軒一軒聞き込み調査をして良いかどうか決め るために、国民投票まで行われていたのです。(その結果)聞き込み調査をやってはいけないということになったらしいです。それくらい彼らはプライバシーに 対してうるさいし、ましてや誰がどこに住んでいるかを地図に表示するなど、とんでもないという感覚なのですよ。中国や韓国、台湾など漢字の文化圏でも、日 本のような表札はありません。住宅地図がビジネスとして成り立つということは、非常に日本的な現象なのです。

表札や住宅地図、国勢調査をプライバシーという視点から見れば、日本は特異な国らしい。それなのに災害報道などでは個人情報の保護が叫ばれている。これま でプライバシーという概念をきちんと考えてこなかったから、こういうアンバランスな状態になっているのではないだろうか。

名乗っても排除されない社会に

プライバシー問題と情報化社会が密接に結びついていることは、あらためて言うまでもないだろう。「官」「民」を問わず、あらゆる情報が集約・管理され、そして同時に漏洩もしている。
インターネットの普及で、情報はたやすく収集・暴露できることになった。どこが部落か、誰が部落民かをおもしろおかしく垂れ流すヤカラがいる。例外なく 匿名か、ふざけた名前を騙っている。これらに対する何らかの対策は今まで以上に必要だろう。だが、もう一方で、プライバシーが漏れても大丈夫な社会をつく ることが肝要ではないだろうか。
どこが部落かは、いかようにも調べることができる。部落にしかない施設や産業があるし、歴史資料も参考にしようと思えばできないことはない。それらを隠すことは無理であるし、その必要もない。
そもそもこの国は、誰がどこから来たのか、どこに住んでいるのか、どの寺院に属しているのかを江戸時代から管理、記録してきた。それらを細かく記録したのが寺院の過去帳であり、現在の戸籍である。部落差別は残るべくして残ったと言える。
では、部落問題の解決とは何だろうか。私は仮に部落民を名乗っても、賤視・排除されないことである、と考える。ハンセン病差別の解決とは、患者・元患者 が名乗っても差別されないことではないだろうか。決して彼らがこの世からいなくなることではない。同じことが、あらゆるマイノリティの問題にも言える。
個人情報・プライバシーの保護と、それを自らが告知しても排除されない社会。そのふたつの両立が必要ではないだろうか。なんでもかんでもプライバシー、それを護ることが人権尊重という風潮は、なんだか変だ。
結局のところ、私たちはさまざまな歴史や不条理を背負った人たちに、どのように向き合うのか、という姿勢が問われているのだと思う。
「きょうだいはいますか?」
「どこに住んでいますか?」
その問いかけからも、新たな関係が始まるはずである。