京都府宇治市ウトロ51番地----過去の精算が終わらない在日コリアンの町
2005/11/11
「出て行けと言われても、出ていくところがない。判決がどうであれ、我々には住む権利がある」と、敗訴後も、ウトロ住民と守る会は「居住し続け、闘う」方 向を決める。行政に介入を求めていく方針を立て、宇治市に水害対策や水道敷設を求めるなどの活動を展開すると共に、行政の手により土地を「地主」から賃貸 してウトロ地区全体を区画整理し、公共住宅のほか地区外にも開放する公開スペースを建設する「ウトロまちづくりプラン」を考案するなど、行政にアプロー チ。また一方で、「国際的な人権規約に反する」ことをジュネーブの「国連社会権規約委員会」に訴えるなど、国際世論にも問うてきた。
そんな経緯を経て、昨年(04年)9月に韓国で開かれた「国際居住問題研究会議」に、住民4人を含む守る会メンバーが出席し、ウトロの歴史的経緯と現状を 訴えたことを機に、韓国内でにわかに関心が高まった。この1年の間に、韓国駐大阪総領事、外交通商省の局長、韓国の国会議員グループなどからの視察が相次 ぎ、日韓アジア太平洋局長会議でウトロ問題が議題にされたのもその成果だ。今年(05年)7月には国連人権委員会の特別報告者も視察に訪れ、「近代的な日 本でこのような状況を見てショックだ。貧困など厳しさの一方、住民の尊厳や連帯感も感じた」と感想を述べている。また、戦後60年すなわち韓国の「解放 60年」にあたる8月15日に、ウトロで開かれたイベント「新しい未来へ~新井英一と共に平和の道~」(主催:町内会、守る会、朝鮮総連南山城支部、韓国 民団南京都支部)が韓国の放送局によって生中継された。
3月末には、自治体による現状把握、政府による支援要請を骨子とする「ウトロ問題解決」に向けた請願が宇治市議会で採択された。
05年8月、フィールドワークにやってきた大阪府内の在日コリアン学生たちと一緒に、町内会副会長・厳本さんの案内でウトロ地区を歩いた。
「これが昔の飯場の建物の跡です」
と示されたのは、参加した学生(22歳)の言葉を借りると「人が住んでいたとは信じられん」「そのへんの板きれを組み合わせただけみたい」といった建物 だ。住民たちが爪に火をともすような生活をして少しずつ金をため、飯場建物にむしろを敷き、畳を敷き、改築し、トイレを設置し、整えていった建物。建て替 えた居宅も、飯場建物に隣接する別棟を建てた居宅もある。表通りから一筋入ると細い路地が続き、歩くほどにそういった集落の歴史が手にとるように伝わって くる。
「僕が今までの経験の中でイメージできる朝鮮集落とずいぶん違う」
と、高校生(15歳)がぽつりと言った。3世だそうだ。
「心底貧しかった時から自分たちでつくってきた集落なんや。ここの空気に歴史の重みがへばりついている。オモニたちがここにずっと住みたい気持ち、分かるような気がする」
厳本さんの説明によると、立ち退きの一件が浮上してから、住民らは改築を控えるようになったという。汲み取り式のトイレが屋外に設置されたままの家も目につく。隙間風が入りそうな建物も少なくない。
集落の南東の小高い丘に上がると、南側に自衛隊大久保駐屯地が金網越しに広がるのがよく見える。GHQの接収を経て日本に返還された、戦時中の飛行場建設地の跡地だ。厳本さんは言う。
「1世は、もともと丘陵地の田んぼだったところの土を平坦に均していく作業を、ここでしたわけです。すべて人力で掘り起こし、モッコに土を入れて運ぶ。朝 鮮人がきつい労働をしなければならなかったのはなぜか。ウトロに住むことになったのはなぜか。そこのところの歴史的経緯を考えてほしいのです」