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京都府宇治市ウトロ51番地----過去の精算が終わらない在日コリアンの町

2005/11/11


環境改善までの遠い道のり

ウトロ住民は、廃品回収業、土建業の日雇いなどでギリギリの生計を立てて、暮らしてきた。
やむにやまれず申請した生活保護で、一時期生活をつないだ家庭も少なくない。
「1965年ごろ」に撮影されたという集落の写真を見ると、ほとんどの家屋がバラックのままだ。
「もはや戦後でない」と言われて10年余り、電車で25分先の京都駅に新幹線が通る時代になっても、ウトロでは杉板屋根で窓のない飯場時代の建物の中での 暮らし。水道がなく井戸水に頼る生活なうえ、低湿地であるため、たびたび水害に見舞われる。水がひいた後に残るゴミの山に、ハエやカやウジ虫も発生する。 劣悪な環境はなかなか改善されなかった。

田さんと鄭さんの写真
戦後まもなくからウトロに住む
田丁年さん(88)・鄭準禧さん(66)親子。

「でも、同胞と一緒やったら、ニンジンをかじってでも、キュウリをかじってでも暮らせる。そんな感じでしたね。私は、母の“働きバチ”の姿しか見たことなかった。私たち6人の子どもを育てるために、朝晩は鉄屑拾い、昼間は茶畑や町工場で働き詰め。ずっと貧乏でした」
と、1939年に釜山から22歳で来日、戦後まもなくからウトロに住む田丁年(ジョン・チョンニョン)さん(88歳)の長女で、ウトロに生まれ育ち今も住む鄭準禧(チョン・チュニ)さん(66歳)。
国に帰りたいとは一言も言わなかった母だが、釜山から送られてきた自分の母親の還暦の写真を見て、「親不孝した」とよく涙していたことを覚えている。田さんの暮らしぶりや思いは、多かれ少なかれウトロ住民に共通だったろう。
住まいを改装する余裕ができてきたのは、1970年ごろからだという。ある人は自分が住んでいた飯場建物を壊して新居を建て、またある人は飯場を改築し てその横に別棟を建てた。日本語の読み書きもままならず、法律など知る由もない彼らが、「長年住んでいたのだから、ここは自分の家だ」と思い込んでいたの も無理はない。何らかの事情でウトロを出て行く人が、別の朝鮮人に、自分が住んでいた家を売るケースもあった。いつしか住民たちは共通の価値観による朝鮮 人コミュニティとその社会規範を培い、その中で生活が成り立ってきた。
念願の水道が敷かれたのは、1987年のことだ。その頃、宇治市の市街地で上水道が敷かれていなかったのはウトロだけ。住民らは何度も宇治市に嘆願した が、地主の日産車体が同意の印鑑を押さないために敷いてもらえなかったからだ。ある時、宇治市内で赤痢が集団発生し、保健所に「ウトロの赤茶けた井戸水は 飲料水に不適」と判断された。それでも、日産車体はまだ印鑑を押さない。宇治市から直に日産車体に依頼し、やっと同意を得ることができたのだという。それ でようやくメーンの道筋に水道管が敷かれたものの、そこから各戸まで水道管を通すには自己負担金が必要だ。その金額が出せずに水道を敷けなかった家が、今 も全戸の約半数を占めている。ちなみに、今も下水道の設備はなく、生活排水は直接に水路や川に流されている。

当事者ぬきの土地売却

やっと水道が敷かれた翌88年、ウトロに不動産業者が出入りするようになり、住民たちは驚いた。実際に自分たちが住んでいる土地が、当事者である自分たち に知らされぬまま第3者に売却されたという、寝耳に水の出来事が起きていたのだった。「土地の所有者」だという不動産会社「西日本殖産」から送られてきた 「立ち退き通知書」を見て、初めて重大なことになっていたことを知る。

厳本さんの写真
ウトロ町内会副会長の厳本明夫さん。

「日産車体が水道管埋設同意書を宇治市に提出したその日に、『ウトロ自治会長』を名乗る平山という男に、当時80世帯、380人が住んでいたウトロの2万 1000平方メートルの土地が3億円で売却されていたと、あとで分かりました。つまり、日産車体は水道敷設の同意書に捺印する時点で、すでに平山に土地を 売却する腹づもりだったということ。人間が住んでいる土地を、当事者に何の相談もなく売却したということです」
ウトロ町内会副会長の厳本明夫さんはこう述懐する。日産車体から土地を購入した平山が、2カ月後に、自ら役員を務める西日本殖産に4億4500万円で転 売。いわゆる土地転がしである。そして西日本殖産が、順に住民全員に「住民が土地を『不法に占拠』しているので、建物を撤去した上で立ち退け」と、迫って きたという経緯だった。
住民がこれに応じないと見ると、西日本殖産は89年2月、京都地方裁判所に次々と立ち退き訴訟を起こした。同じ頃3台のトラックがウトロの入り口に横付け され、民家の解体工事にとりかかろうとした。住民が体を張って抗議したため業者は撤退したが、ウトロ住民とりわけ日本語の読み書きの不自由な1世は、わけ が分からないまま立ち退きの恐怖にさらされるはめに陥ったのである。

「建物収去・土地明渡」請求訴訟に敗訴

ウトロ住民たちは、姿を消した平山を探し出して糾弾したが埒があかない。日産車体に抗議しようとしたが、聞く耳を持たない。こうなれば、一致団結して闘う べきと考え、町内会組織を強化すると共に、ウトロ外の人たちにも広く、一連の出来事をアピールした。こうして、89年3月、町内会と一連の問題に関心のあ る人たちが集まり、「地上げ反対! ウトロを守る会」(以下「守る会」)が発足する。

守る会・住民集会の写真
定期的に開かれているウトロを守る会スタッフ会議(上)ウトロ住民集会(下)。

「すぐ近くに住んでいながら、ウトロのような地域があったと知らなかった。我々日本人が学んだ教科書にはひとことも記載されていない在日の歴史が身近にあったと、最初は驚きでした。知れば知るほど、隣人としてこのまま放っておくことはできないという思いが強くなりました」
と話すのは、以来、守る会の中心メンバーの一人として、住民と共に活動をする田川明子さん。
「被告」となったウトロ住民は、京都地方裁判所への上告書や口答弁論で、「戦後、何の補償もなく放り出された私たちは、自分たちの手でバラックを家屋に建 て替えるなど、朝鮮人の生活拠点に作り上げてきた。ウトロの土地問題は単なる司法上の所有権の有無という狭い範囲ではなく、これまでの歴史的、政治的、社 会的責任をも考慮して解決すべき問題。『20年間所有の意思を持って平穏かつ公然に他人の物を占有したる者はその所有権を取得す』という民法上の取得時効 により、私たちはここに住み続ける権利がある」と訴えたが、裁判所は「法的権利」がないことと、一部ウトロ住民が1970年に日産車体に土地の売却を求め て「要請書」を送付したことを根拠に、1997年、住民が土地を総額14億円で一括買い取りをするという和解交渉を勧告。莫大な額に交渉は決裂し、98 年~99年にかけて住民側が順に敗訴した。その後、控訴するも、最高裁がこれを棄却。2000年12月までに、すべての住民への「建物撤収・土地明渡命 令」判決が下ったのだった。
「ウトロの歴史的経緯がまったく無視された、むちゃくちゃな判決だった」と、ウトロ住民たちは異口同音に語る。