ぼくは「戦争、絶対反対」です。 野中広務さん
2005/11/25
―――教科書問題や靖国参拝問題で、中国や韓国の反日感情が高まっています。激しい反日運動をテレビで見ると、つい感情的に反発したくなります。侵略の歴史をもつ中国や韓国と友好的な関係を築くためにはどうすればいいと思われますか?
今、北朝鮮や韓国、中国に対して厳しい態度をとれば多くの人が拍手喝采をするという風潮があります。それはあまりにも歴史を知らないと思う。特に今の若い 人は、縄文時代は勉強させられても、近代史や現代史はろくに学ばないまま学校を卒業してしまう。「日本はアメリカと戦争したんですか」と言う人もいます。
中国に対するODA(政府開発援助)が多過ぎるという意見がありますが、日清戦争で勝った時、日本が膨大な戦争賠償金を中国からとったことを知っている人 がどれだけいるのか。日本が負けた時、国民党の蒋介石総統は「恨みをもって報いず、徳をもってせよ」と中国の国民に呼びかけました。33年前に日中国交正 常化が行われた時、当時の周恩来首相も同じ言葉を述べ、「今もその気持ちは変わりません。だから戦争の賠償は要求しない」と言われたんです。目先のことば かりに気をとられず、歴史を知り、広い視野をもって考えてほしい。
歴史というのは、砂の上に字を書いて足で消せるようなものじゃない。先日、チチハルで、日本軍が遺棄した化学兵器が腐食して、こぼれた毒液に触れて傷つい た人が3名、ぼくを訪ねてきました。12歳の少女もいて、胸や足に黒い土をひっつけたような傷になっている。視力も落ちたそうです。さらに、周囲の人が 「うつる」と言い出して、彼らを差別するようになってきたらしい。「もう耐えられない」と話すのを聞いて、なんという大きな犯罪を残してきたのかと痛恨の 思いでした。こういう事実を国全体で共有しなければいけない。
―――野中さんは北朝鮮との交流にも積極的だったそうですね。
子どもの頃、ぼくの家には朝鮮人の“子守りさん”がいました。その人たちと一緒に寝起きして、弟たちは子守りしてもらって育った。それから戦時中は、ぼく の家の近所に造兵廠という兵器を作る工場が疎開してきたんですが、働いていたのはほとんど朝鮮から来た人たちでした。この人たちが鞭で打たれて血みどろに なっている姿をぼくは見ていました。隣町のマンガン鉱も同じような状況だった。朝鮮の人たちは非常に冷酷な扱いを受けていたんです。それを見てきたから、 ぼくにとっては北も南も関係ないんです。
―――中国や朝鮮の人たちに対して日本人が何をしてきたか。ご自身で見聞きしてこられた野中さんとは違い、多くの人は伝聞での知識しかありません。戦争を知らない親が、戦争や平和について子どもに教えるのは難しいです。
やっぱりぼくは昭和史をきちっと正確に見てほしいと思います。本当は明治まで遡ってほしいけど、せめて昭和史だけでも。日本がわずか20年ほどの間にどんな誤りをしたのか。そしてその後の60年、いったいどんな努力をしてきたのか。
戦争に負けて国中が焼け野原になった5年後に朝鮮戦争が起きました。これも朝鮮のなかで起きた事件なのか、アメリカが仕掛けた事件なのかはわかりません。 とにかく日本は米軍の兵站基地になり、軍需景気で日本の経済が潤った。朝鮮戦争がなければ、日本はあれほどの経済復興はなし得なかったでしょう。しかしそ れと引き換えに警察予備隊、後々の自衛隊がつくられることになったわけです。ぼくは、朝鮮戦争が起きていなかったら、日本はもっと謙虚な道を歩むことがで きたと思いますね。
今、日本はイラクに自衛隊を派遣しています。今のところ“犠牲者”は出ていませんが、今後のことはわかりません。本当に危ないことがわかれば、自衛隊への 志願者は減ります。いずれは徴兵制が議論される時がくるでしょう。庶民が戦争へ行かなければならない流れになってきますよ。ぼくはそれが一番怖い。
軍隊をもつ国は、経費のかかる正規の軍隊を多くもちたくないから、民間の“下請け”に任せています。彼らのなかにも犠牲者が出ているのに、その数は発表さ れません。現地の人が多いからです。貧しい人が“戦争下請け人”となり、誰にも知られずに死んでいる。こんな現実もあるんです。
日本は広島・長崎で原爆の洗礼を受けた民族として、世界に向けて核被爆宣言をやれる特権をもっています。しかしそれをやらないで、防衛の名のもとに軍備を 増強しようとしている。このままいけば、憲法を変え、自衛隊が自衛軍に、防衛庁が防衛省になり、やがてかつて我々がたどってきた道を再びたどることになる でしょう。
過ちを繰り返さないためには、メディアや派手なパフォーマンスに踊らされないこと。そして戦争の悲惨な現実を知ったうえでさまざまな判断をしてほしいと思います。
<インタビューを終えて>
野中さんは被差別部落出身であることを隠さずに政治活動を行ってきた。幾度となく差別の壁に直面し、そのたびに壁を“正面突破”してきた。野中さんは言 う。「自分の出生を言いふらしたり、それをテコにしてものを取ろうとしたり、あるいは権利にしたりしても、何にもならない。人間は真面目にやれば認められ る。俺はその見本に なろうとやってきました」。しかし野中さんが何かに“成功”すれば、部落出身者であることをあげつらい、足を引っ張ろうとする人間が現れた。
野中さんは、政界からの引退を決めた2003年9月、最後の自民党総務会でこう発言し ている。「・・・野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあとおっしゃった。・・・わたしは絶対に許さん!」。その目は真っすぐにひとりのメ ンバーを 見据えていたという。
「人間は真面目に、一生懸命やれば認められる。そういう社会でなくてはならない」。政治手法に対する見方はいろいろあるが、野中さんの信念は常にそこにあった。
参考資料:『差別と権力』魚住昭著 講談社 1800円
2005年8月24日インタビュー text:社納葉子