置き去りにされた過去は戻らない。すべて孤児の責任ですか-中国残留孤児問題
2005/10/14
国は当初、残留孤児を出入国管理行政上は外国人として扱ったため、残留孤児が帰国を希望しても親族の同意や身元保証人が必要となった。結果、身元が判明し ていても、親族の反対で帰国できないというケースもあって、さらに帰国が遅れることに。89年には親族が帰国に同意しない孤児を対象にした「特別身元引受 人制度」ができたが、孤児が自力で身元引受人を探さなければならなかった。93年9月、親族の反対で帰国できない孤児12人が集団で自費帰国し、成田空港 ロビーで一夜を過ごす「実力行使」を決行したことなどで、世論の批判が高まり、94年「身元引受人制度」に一本化。身元の判明、未判明に関わらず国が引受 人をあっせんすることになり、希望者はすべて永住できるようになった。
国のずさんな戦後処理により早く帰国できた場合でも30歳代は稀で、ほとんどは40~50歳代だ。当初は日本語指導、就職・生活相談などの受け入れ体制は 何もなく、すべて個人の力に任された。中国帰国孤児定着促進センターが初めて埼玉県所沢市にオープンしたのが1984年。86年大阪市にも開設した。とは いえ、4カ月の日本語指導の後は日本語会話のカセットテープが渡される程度で、40~50代の帰国孤児が日本語を短期間で習得できるわけはなく、ほとんど の孤児にとって、言葉のハンディは日本社会との大きな壁となった。
中国から共に帰国した5人の子どもたちは成人し、それぞれに独立した。松田さんは現在、再婚した中国出身の妻(54歳)と日本で生まれた長男(12歳)と 府営住宅で暮らしている。すでに定年退職し、月10数万円の年金と妻のパート収入で生計を立てている。この年金ですら、受給資格を得るために100万円以 上を追納したものだ。それでも、帰国孤児の約7割が生活保護を受けているなかでは、恵まれているほうだという。
一般的には、「帰国者援護法」により長年中国にいた状況を考慮し、掛け金なしで国民年金の3割が受け取れるようになったが、その額は月にわずか2万円あ まり。生活保護を受けるとその分が差し引かれる。しかも、生活保護にはいろいろな制約があって、養父母の墓参りも「海外旅行扱い」となり、その間の保護費 は支払われない。生活ぶりも絶えずチェックされる。松田さんは知人から、「お客用のビールを買っただけで文句をいわれた」「仕事がなくて生活保護を受けて いても税金泥棒と言われる」などの苦情をよく耳にする。「世間の目は冷たいですよ」。
松田さんは帰国後の30年を振り返り「これまでは言葉のハンディとの闘いだった」と語る。
比較的早く帰国し、他の孤児と比べて日本語を巧みにこなす彼にとっても、言葉は想像以上に大きな壁となったようだ。言葉に関していえば、彼らは育った国に帰国したのではなく、他国に移住したのと同じ状況なのである。
「帰国してから温泉などの旅行には1回も行ったことがない。会社での旅行はありますが、私は日本語が分からないから勉強しなきゃいけない。寮では仕事が終 わるとみんなビールを飲んだりする。でも私には勉強があった。日本語には外来語も多くて、それだけ難しい。工場に勤めていた時も工具だけで何百種類もあっ て、その名前を覚えるだけで大変でした。明日の仕事をどうするか、言葉を覚えなきゃの心配ばかり。それしか頭になかったです」
これだけ苦しい思いをしても、やはり日本人だから日本の国を愛するという松田さん。愛するからこそゼロからの出発でも努力してこられたのだ。
国が中国からの早期の帰国措置や帰国後の自立支援を怠ったことで、日本人として人間らしく生きる権利を奪われ続けてきたとして、孤児1人あたり3300万 円の国家賠償を求めている集団訴訟。国費で永住帰国した残留孤児は約2500人のうち2091人(2005年8月13日現在)が原告となり、全国の15地 裁で争われている。帰国後、短期間の言語指導だけで習得できる人は少なく、言葉の壁に悩まされた原告がほとんど。一時は自立できても働ける期間が短く、老 後は年金だけでは生活できない高齢者が多い。中国では日本人と差別され、やっと帰国できた祖国でも中国人と差別を受ける。8割もの人が裁判に訴えるという のは、それだけ生活が苦しいということだ。
初めての判決が今年7月6日が大阪地裁であった。長期にわたって中国や帰国後の日本で不利益を受け、精神的苦痛を受けてきたことを認めながらも、国に法 的責任はないとして、訴えは退けられた。「老後を生活保護に頼らずに暮らしたい」とのささやかな願いを打ち砕かれた原告らは、「不当判決」と口をそろえ た。今後も全国で残留孤児裁判は続く。