再び社会とつながるために~「生活保護脱却」から「社会的自立」へ~ おしごと興業合同会社「とらんぽりん」
2013/10/11
「最後のセーフティネット」といわれる生活保護。「健康的で文化的な最低限の生活を保障(厚生労働省のホームページより)」するための制度であり、憲法で保障されている「生存権」に直結するものだ。しかし年々、生活保護に対するまなざしは厳しくなり、「自立」を促すプレッシャーは強まるばかりである。そのことを受給している(していた)人たちはどう受け止めているのか。そもそも「自立」とはどういうことか。そして「自立」するために何が必要なのだろうか。
大阪府八尾市にある、おしごと興業合同会社を訪ねた。地元のNPOなど8団体が集まって設立、八尾市や柏原市などと連携して、生活保護を受給している人を対象にした「地域に根ざした就労支援」に取り組んでいる。とかく「保護費(財源)の抑制」という観点からの就労支援、自立支援になりがちだが、困難に陥った人の多くは自信の喪失や社会的孤立など生活そのものが危機的状況にある。一緒に生活を根本から立て直し、その過程を通じて自信を取り戻し、再び社会とつながる「社会的自立」を目標とする。具体的には八尾市内にある久宝寺緑地公園の管理作業を中心に3ヶ月のトレーニングと地域就労支援コーディネーターなどによる相談援助を受ける。自分のペースと適性を確認しながら目標を設定し、社会資源も活用しつつ「自分らしい自立」をめざす。「何度でも、自分の力に応じてジャンプできる」という思いをこめ「とらんぽりん」と名付けられた。この事業の"一期生"となる2人がインタビューに答えてくれた。
イワサキさん(65歳)が生活保護を受給したのは50代から60代にかけての約6年間だった。10代から溶接工となり、40年近く全国各地で働いた。東京のテレビ局や横浜のランドマークタワーの建設にも関わり、難工事を職人の技で乗り切ってきたのが誇りだ。
しかし母親が認知症を発症し、故郷へ戻ったところから人生が一変した。実家を売り、引っ越したのをきっかけに母親の症状は急激に悪化する。元の家に戻ろうと徘徊を繰り返し、そのたびにパトカーが呼ばれ、警察まで迎えに行った。介護に疲れ切って眠り込んだ真夜中、いきなり髪をつかまれることもあった。自分で施設を調べ、手当たり次第に電話をして入所を頼み込んだが、「待ってる人が何百人もいますから」と断られるばかりだった。役所に相談に行っても、具体的な情報は得られなかった。
疲れ果てた時に地域の民生委員が困窮に気づいて声をかけてくれた。そこでようやく病院を紹介され、同時に生活保護の話が出た。蓄えも底をつき、生活が破綻する寸前だった。「人にもよるやろけど、我々の年代は生活保護を受けるのは恥やと思ってきた。最初は"アホか"と言うたんやけど、金がなくなったら背に腹は代えられん。せやけど生保受けてたことは誰にも言うてへん。きょうだいにも言われへん」
母親がデイサービスに通い始め、お金の心配がなくなり、ようやく一息つけた。しかし朝9時半に迎えが来て夕方4時半には帰宅するという生活では家事をするのに精一杯で仕事はできなかった。3年前、88歳で母親が亡くなった時、イワサキさんは62歳になっていた。「ほんまは仕事したい。今でも働けるねんで。でも特殊な仕事やから、60超えたらもうないわ」。生活保護の受給は年金支給開始と入れ替わる形で終わった。「ホッとしたわ。年金と保護とでは全然違う。もう誰に何を言われることもない。秘密にしとくこともない。せやけどあの時、生活保護を受けてなかったら首くくってるわ。母親を殺してたかもしれん。ほんまに、何回首締めたろかと思ったか。たまたま近くに民生の人がおったから助かった。ほんまに助かったわ」。
タムラさん(50歳)は47歳の時に生活保護を受給した。長く米の小売店で働いていたが給料がジリジリと下がり、立ち行かなくなった。叔父が関東でやっていた建設業を手伝い始めたが、数年後に廃業となり仕事を失う。地元に戻り、仕事を探したが見つからない。精神的なプレッシャーもあってか、体調も崩した。貯金がなくなる寸前に役所に相談に行き、生活保護を受けることになった。「年配の人でなければ受けられないというイメージがあったので、40代でもらっていいのかなという気持ちが頭をよぎりました。できればもらいたくなかった。自分の稼いだ金で生活したかったけど、どうしても仕事が見つからなくて」