『身世打鈴』の初演は1973年4月29日。30人も入ればいっぱいの喫茶店が会場だった。初日の前夜は緊張で一睡もできなかった。朝鮮女性の清らかな心を表すという真っ白なチマ・チョゴリを身につけた。ドンゴロスの袋を下げ、ちいさな舞台に出ると、足元にまで人があふれていた。新屋さんは2日間の4回公演を食事もほとんど摂らないまま演じ切った。直前まで表現に苦しんだが、「きれいに、かっこよく」という気持ちを捨て、「相手に語りかける」ことに徹することで声の幅が広がり、台詞と台詞の間に深みのある間が生まれた。以来、小中学校や高校、市民の勉強会や地域のイベント、果ては結婚式まで、あらゆる場所に呼ばれ、演じてきた。当初27分だった上演時間は、何度も練り直され、現在は1時間20分になっている。 40回目ぐらいやったと思います。朝鮮人ばかり100人ほど集まるという場に呼ばれたんです。まだ始めたばかりでしたから、あんまり自信がありませんでした。「そんなんとちゃうで!」と言われるんじゃないかとびびってたんですよ。ところが途中で「日本人がやってるって聞いたけど、朝鮮人やないか」という声が客席から聞こえてきたんです。何も言わず、目に涙をためた真っ赤な顔で会場から出て行った人もいました。いろいろなことを思い出されたんでしょうね。わたしの演技が通じたと思ってホッとしました。 わたしは朝鮮人にはなれません。でも言葉にできないほど苦しんでこられた朝鮮人の気持ちになろうと必死でした。一方で人間には笑いの要素がものすごく必要だと思うんですね。悲しいこともひどい目に遭ったこともたくさんあった。だけど「こんなことがあったんです」「つらかったんです」と泣きの涙で演じたら、見ている人がしんどくなるでしょう。「苦しかったけどグッとこらえ、時には笑い飛ばしてやってきたんや」というほうが胸に響く。自分に対する誇りが伝わるからです。
奈良で上演した時、ある在日のおばあさんが「わたし、日本名を使って家を借りてやったことがあるんや。日本人をだましてやってん」と言われたんですよ。「朝鮮人には家を貸さない」という差別を逆手にとった反逆精神。そのたくましさがすばらしいと思いました。 今、日本とアジアの国々との関係はよくないですね。特に拉致問題に関連して、北朝鮮に対する日本人の見方は非常に厳しいです。確かに拉致はひどい。だけど日本は北朝鮮に対して国としてきちんと侵略や強制連行の責任をとっていません。相手を非難するだけでなく、自分の非も認めたうえで「一緒に話し合おう」という姿勢でなければ。こう言うと、「そんなことを言ってたら大変なことになりますよ」と心配する人もいるんですが、言うべきことは言わないとあかん。今、在日の人がどれほど苦しんでいるか。「おまえら、出て行け」と見ず知らずの人に暴言を浴びせられた人がたくさんいるんですよ。
自分で脚本を書く時は、『身世打鈴』以外でも被差別部落や沖縄など、差別を受けてしんどいなかを生きてきた人たちをテーマにすることが多いですね。しんどいけれども、ものすごくたくましく生きてるでしょう。わたし、「ネクタイ締めて、机のまえでそろばんはじいてる者だけが人間か」という言葉が好きなんです。『身世打鈴』の主人公・申英淑の父親の口惜しい気持ちを表現した台詞です。たとえば、ごみ収集車やバキュームカーに乗っている人を馬鹿にする人がいますね。こういう考え方をなくさないとあかん。人間が生きていくうえで必要不可欠な、大切な仕事やとみんなが思わないと差別はなくならない。 わたしは今年で77歳になります。戦争が終わって60年。自分でも驚くぐらい、あっという間でした。光陰矢のごとし、一日一日をがんばらないと。次の新しい芝居のことも考えています。権力者が偉いと思っている、優越意識をもった人たちを笑い飛ばすような芝居をつくりたいんです。
2005年5月20日インタビュー text : 社納葉子
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