アイヌとして生まれること アイヌとして生きること
2005/03/18
静江さんは北海道・日高山脈のふもとにあるちいさな町、浦河に生まれた。7歳上の姉と4歳上の兄、そして3人の弟がいる大家族。両親は家族が食べるぶんだけで精一杯の田畑で米や野菜をつくり、父は猟師として熊や鹿を追った。子どもたちは小学校にあがる年には立派な働き手として親を助けた。貧しい生活のなか、集落のおとなたちは支え合って暮らしていた。貧しさのために子どもを育てられない和人(大和民族、本土出身の日本人)の子を引き取って育てることも珍しくなかった。そして老いも若きも囲炉裏を囲み、子どもたちに昔話を通じて大いなる神や自然の偉大さや生きる知恵を話して聞かせた。 小学校の低学年の頃だったと思います。学校からの帰り道、いきなり同級生から「アイヌ!」と言われました。その言い方には何かとても嫌な響きがあって、ギクッとしたんです。それまで聞いたことのなかった、人を罵倒する声でした。だけどなぜそんなことを言われるのかわからないので、家に帰るなり「かあちゃん! アイヌって何?」と訊いたんですが、母はなぜか取り合ってくれませんでした。その様子から「あんまり訊いちゃいけないのかな」と察したこともあるし、それ以上知りたいという気持ちにもならなかったから、それきりアイヌについて訊くことはありませんでした。その時、もし母が「アイヌというのはこういうもんだよ」と話してくれたら、わたしの人生は変わっていたかもしれません。そんなことをきっかけに「学校での差別」を感じるようになりました。
級長に選ばれるのは必ず「成績のいい男の子」で、副級長が「成績のいい女の子」だった。しかしアイヌの子どもはたとえ成績がよくても級長、副級長には選ばれないという「暗黙の決まり」があった。教師の態度も、アイヌの子か和人の子かによって違った。よそよそしい空気を感じとったアイヌの子どもたちにとって、学校は居心地のいい場所ではない。 日本が敗戦した年、わたしは12歳でした。まだ子どもと少女の境目で恋の経験はありませんでしたが、2、3歳年上の先輩方からよく恋愛の話を聞かされました。たいてい和人の青年に憧れて、恋をするんです。アイヌの青年とは恋愛したくないんですよ。毛深いとか顔の彫りが深いといったアイヌ民族独特の特徴も差別の対象にされましたから。だけど和人の青年と交際はしても、結婚はできない。「してもらえない」んです。結婚式の日、遠くから彼の家を眺めて涙をこぼす……そんな話をよく聞かされました。 12歳で「誰とも恋愛も結婚もしない」と思い決めた静江さんは、高学年になってからはほとんど通えなかった小学校を学校側の“配慮”で卒業すると、朝早くから夜遅くまで働いて家計を支えた。19歳になった年に、姉が肺結核で亡くなった。葬式を終えて家族みんなで囲炉裏を囲んだ時、誰かがふと「静江も来年は20歳になる。そろそろ嫁入りしないと、いき遅れてしまう」と口にした。 幼い頃は体が弱かったのですが、7歳ぐらいから親の手伝いができるようになり、10歳を過ぎると学校へも行かずに働き続けました。一方で、絵を描いたり詩を書いたりするのが好きで、近所では「異端児」だったんです。「そんなことしてたら嫁のもらい手がない」というのが親の口癖でした。そう言われるのがとても嫌で、「女の子らしくしなさい」と言われると、わざと馬を乗り回したり木登りしたりもしました。 |