アイヌとして生まれること アイヌとして生きること
2005/03/18
手違いで学費の高い私立校に入学してしまったのは痛かったが、豊かな環境でのびのびと育ってきた年下の同級生たちと過ごす学校生活はそれまでの苦労を吹き飛ばすほど楽しく、充実していた。遅れた勉強を取り戻すために夢に見るほど勉強する一方で、はしゃぎながら札幌の町を歩いた。村では「アイヌ、アイヌ」と蔑みをこめて呼ばれていたが、同級生たちは礼儀正しく「浦川さん(旧姓)」と呼んだ。静江さんは「自由で平等な」空気をからだいっぱいに吸い込んだ。 もう夢見る夢子ちゃんで、怖いものなしですよね。図書館に通ったり同級生に借りたりして、本もいっぱい読みました。ゴーリキーの「どん底」を読んだ時はビックリしましたよ。アイヌの生活そのものだったから「こんなものが名作になるのか」と(笑)。 夢と希望にあふれ、生活と学費を安いアルバイト料でまかなう生活も若さで乗り切っていたが、もともと丈夫ではない体には負担が大きく、やがて体調を崩しがちになる。25歳になった静江さんは、客として店にきた男性と交際し、妊娠をきっかけに27歳で結婚した。 相手は東京生まれの和人で、姑となる人は穏やかで優しく、恋愛というよりも「この人たちなら自分や家族を差別することはないだろう」と考えての結婚だった。 「結婚はしない」と思っていたのにね。今思えば、だんだん弱っていったんでしょうね。頼る人もおらず、後ろを振り向くことはできない。かといって前へ進むのも困難、という状況のなかで、ひとりで必死にがんばっていました。なのに失恋はするし、心配する母親からは「いいかげんに結婚しないといき遅れると近所の人も言っている」と手紙がくる。追いつめられるように結婚しました。
結婚後はふたりの子どもに恵まれ、しばらく平穏な生活が続いた。大学に進みたいという夢ももち続け、家事・育児と仕事の合間を縫って高校に通い続けた。しかし絵や詩を愛し、文学や政治について考えることが好きな静江さんと、男としての面子や沽券にこだわる仕事人間の夫との間にある溝があらわになり、次第に深まっていった。夫との価値観の違いに苦しむ静江さんは、長い間封じ込めていた「アイヌとしての自分」と向き合わざるを得なかった。
夫は体裁ばっかり考える人でした。夫に限らず、和人は本質よりも体裁や大義名分を大事にしますね。目下の人を人間扱いしなかったり、いいところをなかなか取り上げない。和人の社会のなかで和人の価値観に合わせて生きていくほど、自分が汚れていくという気がしました。かといって、アイヌとして生きているとはとても言えない。街でアイヌだろうと思われる人とすれ違っても、お互いに声をかけることもせず、むしろ目をそらすわけです。 3歳ぐらいから14、5歳ぐらいまでのアイヌの子どもたちが、しがみつくように頼ってきましたよ。ご飯の時、子どもたちはお箸でおかずをつまむ前に、わたしの顔を上目遣いで見るんですよ。「この子たちは食べるということから大変な思いをしてきたんだ」と思うとたまらなかった。周りを気にせずに食べるようになるまで、わたしが下を向いて食べました。そういった子どもたちが何人もうちから卒業していきました。 |