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強くあることを目指す社会から 弱さを前提とした社会へ 抱樸理事長 奥田知志さん

2016/06/28


強くあることを目指す社会から弱さを前提とした社会へ ホームレス経験者との出会いと語りから学んだこと 認定NPO法人抱樸(旧北九州ホームレス支援機構)理事長  奥田知志さん

 格差と貧困の拡大が指摘されるなか、2015年度には「生活困窮者自立支援法」が施行されました。官民問わず、さまざまな支援が生まれていますが、本当にしんどい人に届いているのでしょうか。そもそも支援とはどうあるべきなのでしょうか。長年ホームレス支援に取り組んできた奥田知志さんに「支援」について話していただきました。

人を属性や制度の枠組みで見ない

 私たちが北九州市でホームレス支援を始めてもう30年近くになります。全国的には"老舗"の部類になりましたが、ホームレスの人たちを支援する活動はずっと前からあり、ぼくも先人の活動にならって始めました。当時はホームレスという言葉がなく、「日雇い野宿労働者」「路上生活者」と呼ばれていました。「宿なし、職なし、メシなし」すなわち住む場所と仕事、そして食べるものがないのが野宿する人の共通点で、当時の支援もそこに合わせておこなわれていました。つまり、炊き出し、住居支援、就労支援をしていました。 

 炊き出しやまちを歩くなかで野宿者と出会い、一人ひとりと対話をします。その中で見えてきたのが「ハウスレスとホームレス」という問題でした。実際に野宿をしている人たちと会ってみると、「宿なし、職なし、メシなし」だけでなく百人百様の事情がありました。知的障害のある人、多重債務を抱えている人、虐待や貧困など家庭の問題を抱えている人。身元引受人が確保できず刑務所から満期出所し、そのままホームレスになっている人。昨日まで刑務所にいた人が、家も仕事も自力で見つけるなんて無理に決まっています。だから、炊き出し、居住支援、就労支援だけでは到底対応できません。

 さらに、彼らは「家がない」だけでなく、社会的に孤立していました。そこで、家や仕事がなくて経済的に困窮している状態を「ハウスレス」、社会的に孤立している状況を「ホームレス」ととらえ、この二つの視点を基礎としつつ、個々人が複合的に持つ課題に対応する包括的で個別型の支援が必要だと考えました。

 そもそもホームレス支援というけれど「ホームレス」という人はいません。いたのは「田中さん」「佐藤さん」「奥田さん」という具体的で複合的なひとりの個人だったのです。この視点を欠いて「ホームレスの○○さん」ととらえた瞬間、○○さんという固有の人がかすんでしまう。ぼくたちは、出会いを中心とし、個別の事情にできるかぎり寄り添っていく活動へと入っていきました。そのためには徹底した聞き取りが欠かせません。支援する側はともすれば「この人にはあの制度が使える」「この人はホームレスだから」という見方になりがちです。けれど人を属性や制度の枠組みに当てはめて見ないことから支援は始まると考えてきました。

金もないけど友だちもいない人が多い日本

 貧困問題を議論するうえでよく引用されるのがOECD(経済協力開発機構)の相対的貧困率に関するデータです。これによると、日本の相対的貧困率は約16%で、6人に1人が貧困状態です。アメリカは17%です。アメリカは貧富の差が激しく、貧困層も日本以上に多いと思われがちですが、実は日本とアメリカは1%しか違いません。ただ、アメリカは超富裕層が多く、1%の人が富の20%を占有しています。

 あまり取り上げられませんが、私が重要だと考えているもう一つのOECDデータがあります。「日頃誰ともつきあわない」「めったにつきあわない」という人がアメリカでは3.7%なのに対して日本は17%にのぼります。先のデータと重ねるとアメリカ「金はないけけど友だちがいる社会」ですが、「日本は金もないけど友だちもいない社会」だと言えます。日本においては、経済的貧困と共に社会的孤立に対する支援が必要なのです。

 今の社会は何らかの条件が満たされなくなった時、急激に社会から排除されてしまいます。仕事を失った、借金が返せない、夫のDVに耐えかねて子どもと家を飛び出したなど、さまざまな事情で生活の一端が崩れることは誰にでも起こりうることです。しかも、それは自己責任だという空気があります。

 2016年4月、生活困窮者自立支援法が施行されました。さまざまな困難のなかで生活に困窮している人に包括的な支援をおこなうと謳われています。私も厚労省の社会福祉審議会のメンバーとして経済的困窮と同時に社会的孤立に焦点をあてた支援の必要性をかなり言いました。しかし実際に法律ができてみると、第二条に「生活困窮者とは、現に経済的に困窮し、最低限度の生活を維持することができなくなるおそれのある者」と書かれているだけで「社会的孤立」という文字はまったくありません。

 一方で「経済的困窮」の基準が明確に示されていないことは、この法律の特徴を示しています。これまでの制度は、明確に対象者やその資格を規定していました。しかし今回の法律は、「おそれのある者」まで含む「対象者を規定しない」、いわば「困っている人は誰でもおいでなさい」というものです。そういう意味では、画期的な制度だとおもいます。

「何を食べるか」の前に、「誰と食べるか」

奥田知志さん

 社会的孤立は経済的に困窮している人だけに限りません。金や大きな家があっても気にかけてくれる家族や友人がいなければ「自分は何のために生きているのか」とむなしい気持ちになるのが人間です。

 ぼく自身、そこをわかっていない時期もありました。ぼくたちの炊き出しに500人もの人が並ぶようになった時、そのなかに家から来ている人たちがいました。服装や様子をみればわかります。そんな時、「申し訳ないけど、ここは(仕事も家もなくて)食べられない人の場所だから」と遠慮してもらっていました。それでも帰らない人がいて、「家があるとわかったら弁当1個5000円もらう」なんて意地悪を言ったこともありました。

 しかしある時、ハッとしたんです。家があるのに夜の公園で小1時間も並んで弁当を受け取っている。そこには単に食べる食べない以上の問題があるはず。ここで一緒に食べるということに意味があるんじゃないのか、と。今は誰が来てもいい場所になっています。半数がホームレス、あとの半数は自立した人たちがわざわざ食べに来ています。だからいわゆる経済的困窮だけに光を当ててもだめで、人はやっぱり誰かと一緒に食いたいという社会的な存在なんですね。

 今は子どもの貧困に光が当てられ、さまざまな支援が始まっています。食事が十分にとれない子どものための「子ども食堂」もそのひとつ。でも「食べる」という問題以上に「孤食」つまりいつも一人で食事するという問題は大きいと思います。孤食をどう解決するか。

 たとえば母子家庭ならおかあさんも一緒に来て親子で食べればいい。友だちを連れてきてもいいでしょう。「貧困」の子どもだけをピックアップして、その子だけに食べさせるというのはどうかと思います。

 何を食べるかより、誰と食べるかのほうが大事だとぼくは考えます。そういう意味ではコンビニで賞味期限切れが迫った商品を「貧困」の家庭や子どもたちに配るということに疑問をもっています。大人社会の残り物で子どもを何とかするという発想はやめたほうがいい。

 ぼくたちが運営する抱樸館北九州は2013年9月に開所しました。自立支援住宅が6室あります。借金をして抱樸館を建てた時、ある人に「ホームレスを支援するのに、こんな立派なものを建ててどうするんだ」と言われました。カチンときて、「ぼくは自分が住みたくないと思うようなところに人を住まわせるということはしない。最低、ここなら自分は暮らせるというものを建てる。そのために大きな借金をしても構わない」と言いました。「ホームレスだからこの程度でいいだろう」という発想でやれば、せっかくの支援が喜ばれないどころか、その人の気持ちが荒むだけです。

助ける/助けられる関係の固定化を抜け出して

 出会いを大事にしていると言いましたが、出会いはフェアでなければいけません。しかし実際はパターナリズムに陥りがちです。温情たっぷりですが、意識は「庇護」なんです。「こちらが用意したものやルールに従うかぎりは守ってやる」ということになりかねません。支援する側と受ける側が支配と被支配の関係になっているケースは少なくないと思います。

 しかし野宿生活を経験した人と話していると、彼らがこその特権的な感覚をもっているのがわかります。野宿経験のないぼくには絶対分からないこと、あるいは見えない正解があります。それは、彼らから教えてもらうしかない世界です。これをどう価値づけるか。助ける側と助けられる側という関係が固定化されると、助けられる側の人は常に「ごめんなさい」「ありがとう」と言わなければいけない。それでは元気が出ません。

 彼らから向けられるまなざしや、そこに含まれる問いは人間の普遍的な本質を気付かせてくれます。それは「自分も彼らと何も変わらない」ということです。人間は弱い。たとえばキリスト教は人間を罪人だと言い切っています。「正しい人」は一人もいないと。あるいは、「人は独りでいるのは良くない」というのが、人間を創造した時の神の言葉です。

 これまで日本は「強い社会」を目指してきました。けれどその限界ははっきり見えています。誰もが弱さを抱えている以上、その弱さを前提とした社会でなくてはなりません。もちろん、がんばらないといけない局面もあります。けれど弱さを前提としてうえでがんばるという社会と、強くなるのを前提とした社会とでは後先が全然違います。

めんどくさい支援をやる覚悟があるか

 今、この社会では人間同士がどんどん分断されている状態です。生活困窮者支援も注意しなければ分断の促進になると考えています。一定の人たちだけに枠組みをつくり、特別な「支援」をする。支援を受けた人は「生活困窮者」という枠組みに組み入れられ、特別視されるということでもあります。

 一方、出会いを大事にし、徹底的に話を聞くことから始まる支援は時間も手間もかかります。しかし本来、支援とは「めんどくさい」ものです。いや、人間自体がめんどくさい(笑)。このめんどくさい一手間をやる覚悟があるかどうかが、人間であるかどうかの瀬戸際です。

 「ホームレスのことはホームレスの人に話してもらおう」と、2013年、野宿生活から自立した人たちで「生笑(いきわら)一座」を結成し、全国を回っています。目的はひとつ。子どもたちに「人生には思いもよらないことがあるけど、生きてさえいれば、きっと笑える日がくる。助けてと言っていいよ」と伝えることです。

 野宿生活11年の経験をもつ、あるメンバーには決め台詞があります。「いつか笑える日がくるなんて、嘘だと思うだろう。おじさんを見てごらん。私が証拠だ」。

 これまでホームレスという経験は隠すべきもの、恥ずかしい経歴だとされてきました。しかし彼らの言葉は真っすぐに子どもたちに届き、交流が生まれています。野宿という痛みをもっているおじさんたちが存在の不安を感じている子どもたちを勇気づけ、子どもたちもまたおじさんたちを励ます。価値がないとされてきたことを、まったく違う位相のなかで価値を見い出す。こうした仕組みをあちこちで、できるだけたくさんつくっていく。

   今、この社会がもう1度生まれ変わるチャンスの時を迎えているのだとぼくは思います。

(2016年4月/取材・構成/社納葉子)