民主主義の"面倒くささ"を引き受けていきたい 湯浅誠さん
2012/11/16
拡大する非正規雇用、広がる貧困、自死に追い込まれる人々。簡単には解決策が見つからない課題が山積するなかで、私たちはこれからどんな社会をつくっていけるのか。誰もが「生きていてよかった」と思える社会にするために、何が必要なのか。強いリーダーシップを求める「おまかせ民主主義」の危険性を訴える社会活動家・湯浅誠さんに話を聞いた。
――2009年、政府が貧困率を発表し、それまで「ない」としていた国内の貧困が存在することを公式に認めました。湯浅さんは1995年から野宿者支援を始め、2006年から貧困に焦点を当て「反貧困」をアピールしてきました。今、貧困についての認識はかなり一般化されたと思いますが、一方で生活保護に対するバッシングなど、苦しい状況にある人に対する社会の空気は厳しさを増しているように感じます。湯浅さんはどのようにとらえていますか?
今、生活保護に厳しいまなざしを向けている人たちの目には、こう見えていると思います。
2000年代後半の派遣村や政権交代といった一連の動きをもとに、さまざまな社会運動をしている人たちが勢いづいた。その結果としていろんな人たちが生活保護制度に流れこんできて、なかには「もらわなきゃ損だ」という人も少なからず混じっている。生活が大変な人は「すみません、すみません」と言いながら肩身狭く生きていないといけないはずなのに、生活保護を受けるのは権利などと主張する。これはある種の便乗であり、モラルの低下だ。ところが生活保護の制度は、性善説に基づいた制度であり、便乗組を拒否できない。このままでは生活保護はどこまでもふくれあがり、日本の財政は破綻する。だから今、何らかの手を打たねばならない――。
つまり、生活保護制度に切り込まなくてはならないと言っている人たちからすれば、自分たちの主張は「正義」なんです。そしてこうした見え方がかなり広く共有されてきていると感じています。私自身はゆがんだ見方だと思いますが、ただ否定したり批判するのではなく、その人たちの心理と論理をきちんと踏まえないといけないと思いますね。
――というのは?
困窮者支援の現場にいると、生活保護を受ける人たちを「甘えている」と批判したり、基準を切り下げようとしたりするのは「とんでもない」ということで一致します。しかし支援の現場以外の世界では必ずしも共有できません。共有できない人のほうが多いかもしれません。そんな時、「外の世界はわかってない」「なんでこれが理解できないんだ」となりがちなのですが、理解されない原因は支援者側、運動する側にある場合も少なくないんです。
自分たちの言いたいことを言うだけでは、対立した意見をもつ人たちには通じません。自分たちとは違う経験、違う土台をもつ人たちに通じる言葉、説得できる言葉は何か。今ないのであれば、編み出していく必要があるでしょう。