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民主主義の"面倒くささ"を引き受けていきたい 湯浅誠さん

2012/11/16


自分の住む世界の狭さを自覚したい

湯浅誠さん

――さまざまな市民運動をやっている人たちの中からは、自分たちが支持しない人が選挙で選ばれると「自分のまわりにあの人を支持する人は誰もいない」「どういう人があの人を支持しているのか」という声が度々出ます。それも市民運動にかかわる人とかかわっていない人との間に「通じる言葉」によるコミュニケーションが成り立っていないという表れなのでしょうか。

「誰が支持しているのかわからない」というのは、要するに「自分の住んでいる世界は狭いです」と言っているようなものなんですね。自分を中心にした半径5メートルの「仲間内の民意」は「全体の民意」ではありませんから。

――一方で、市民運動からも政治からも距離を置いている人たちは「どっちもどっち」と冷ややかに見ているように思えます。

「あの政治家はやりすぎかもしれないけど、あれぐらいやらないと何も変えられないんだよね」という言い方はよく聞きます。でもそれは元をただしていくと、「自分たちは無力で、力をもっている人に決めてもらうしかないんだ」ということなんですね。
 ある種の「既得権益」と、それに切り込んでいく人との"闘い"を観客として見ているという感じです。なぜそうなってしまうのか。
 誰でも笑顔で自分らしく生きられる社会に暮らしたいでしょう。差別はいけないということに反論する人もいないと思います。しかしそのためにどうすればいいのかという話になると、意見はさまざまに分かれます。それが当たり前です。そこで意見交換や議論をするわけですが、合意に至るまでは粘り強く調整する忍耐が必要だし、時間もかかります。なんとか全体の合意にこぎつけた時には自分の意見は1パーセントぐらいしか反映されてなかったということもあり得ます。
 民主主義とはこのように面倒くさくてうんざりするものです。そして多くの人は「そんな面倒くさいことは誰かにやってもらいたい」と本音では思っている。それが今の社会のあちこちで見られる状況ではないでしょうか。民主主義に反対する人もほとんどいないはずです。しかし民主主義を支持するならば、この面倒でうんざりする作業を引き受けなければなりません。

スピードや対案を求めることの暴力性

湯浅誠さん

――民主主義社会では選挙で私たちの代表を選びます。いわば多数決で私たちの生活のありようを決めていくわけですが、結果として「選挙で勝った人」がすべてを決めていいのだ、すべてを任されたのだといった空気があるのが気になります。

 世論が8対2で分かれている時、全体がある程度納得できる解決策はあります。しかし今、こうした解決の仕方は非常に受けが悪い。「玉虫色だ。白黒はっきりしろ」というわけです。そして強いリーダーシップやスピード感、「決められる政治」が求められます。そうした発言をする人自身は意識していないかもしれませんが、結局「数でいけよ」というメッセージになってしまっているんですね。「反対するヤツは何やったって反対するに決まってる。そんなのは押し倒すしかないんだよ」ということです。

――反対すると即座に「じゃあ対案を出せ」「対案も出さずに反対だけするなんて許されない」という空気も気になります。「今すぐもっといいアイディアは浮かばないけど、とにかくそれは反対」ということもありますよね。

 対案を出すことは大事ですが、そういうことは余裕がないと汲み上げられません。それから、意見や案は議論の前にあるものなのかというと、実は人と話し合うなかで「俺ってこんなこと考えてたんだ」というふうに自分の考えがまとまってくることも多いんですよね。
 内閣府参与という仕事を2年やって、霞ヶ関と一般社会との圧倒的な情報量の差を思い知らされました。やっぱり霞ヶ関にはあらゆる情報が入ってくるし、欲しい情報も入手しやすいんですよ。情報格差はものすごく大きいです。こうした格差はあちこちにあると思います。格差のある状態で「反対するなら、これ以上の対案を出せ」というのは暴力的ですね。

――選挙の投票率の低さを嘆き、「投票しない人に反対する権利はない」「投票しない人に政治を語る資格はない」と言う人もいますが。

 意識の問題にしてしまうんですね。「投票する人はよく考えている人で、しない人は考えていない人」というような。自己責任論と同じ発想なのですが、市民運動も陥りがちなところです。
 でも、私もよく講演に呼ばれますが、ほとんどの集会には手話通訳も保育スペースもありません。意識の問題以前にバリアがあり、参加できない人がいるということではないでしょうか。参加にいろいろなバリアがある社会では、市民運動は停滞すると思います。そういう意味でいえば意識の問題だけではないわけです。
 では、誰がその矛盾を引き受けるのかということです。手話通訳や保育スペース、その他のバリアをなくそうと思えばお金も手間もかかります。「そこまで自分たちが背負わなきゃいけないのか?」と誰もが思うんですよ。結局は「そこまでやる必要はありません」というしかないのですが、誰も矛盾を引き受けない結果として集会に参加できない人は置き去りにされてしまう。たとえば親の介護で大変な人が介護問題を考える集会に参加できない。その人の疎外感は、「ああいう集会に行く人って余裕のある人だよね」という見方につながります。そして「余裕のある人がやってることに税金を使う意味があるんですか」と言う人が現れた時、「そうだよな」と共感する。これが今の流れだと思います。