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がんばらなくてもいいと言える社会でありたい 立岩真也さん1

2001/06/08


・・・「できないことをできるようになるためにがんばる」とか「できるようになった時にものすごく嬉しいというのは、「できることがいいことだ」という価値観が刷り込まれているのか、人としての自然な感情なのか・・・・・。

それは微妙なんやけど、どっちもあるでしょうね。そういうことに喜びを感じるというのはどんな時代にもあっただろうし、それが生きがいだという人がいてもいいと思う。
ただ、「できる」「できない」ということに対して、自分が生きていくなかでの楽しみの一部という以上の意味を、僕らの社会は付与してしまった。つまり、「できる」ということがすなわち「人間の価値」や「生きてることの意味」といったものまで含めてしまったんです。そこまでいくと「ちょっと違うんじゃない」と、僕は言いたい。
立岩真也さん「できる」イコール「自分が生きている値打ち」だというところまでいってしまうと、何らかの理由でできなくなってしまえば、生きている値打ちがなくなってしまうということになります。たとえばアルツハイマーになって知的能力が落ちていくとか、進行性の難病にかかって昨日までできたことが今日はできない、明日はもっとできなくなるという状況になった時、単に不便というだけじゃなく、自分の存在価値までが危うくなったように感じてしまい、「生きる価値がない」から「死ぬしかない」ところまでいってしまうということが、実際にあるんですね。それが安楽死といわれるものの一部だと思うんですけど。

・・・安楽死についても書かれていますよね。

ええ。2章にわたって書いたんですけど、簡単にまとめるとこういうことだと思うんです。今、安楽死という選択をしようという人は、「人間的に弱いから、死のうとする」というよりは、「強くなくてはいけない、しかし現実の自分は強くない」という思いがあって、そのギャップのなかで死を選ばざるを得ないんじゃないか。つまりその人は弱いのではなく、「自分」というものを強く意識している、ある意味では『強い人』だからこそ死を選ぼうとする。だとすれば、そこで言うべきなのは「強くなれ」ではなく、むしろ「弱くてもいいじゃないか」ということだと思うんですよ。

・・・「自分の命をどうするかを決めるのは自分だ」という主張の背景には、「強くありたいのに、そうじゃない自分」への失望がある可能性もある、と。そうなると、その『自己決定』の意味が変わってきますよね。本来の目的からずれているというか。『自己決定』という言葉は確かに最近よく言われていますが、なんだかすごい説得力を感じてしまいます。でも、「本人が決めたこと」を何よりも優先しようというのは大切なことではあるけど、決められない人や今は決めたくない人もいるし、「決めたこと」だけに気をとられていると大事なことを見逃してしまう恐れもある。場合によっては人を死に追いやってしまう、いわば『効くけど、副作用も強力な薬』のようなものだということも認識しておきたいですね。

まあ、「弱くてもいいじゃないか」というのはスローガンというか、お題目みたいなもので、実際に弱いまま、あるがまま、どう生きていくかといえば、やっぱり「それでいいんだ」だけでは済まないわけです。じゃあ弱い部分をどう補って暮らしていくのかを考えないといけない。弱くある自由のために。そういうことを書いたのが第7章で、介護の話が中心なんですけど。

・・・『自己決定』についてはあまり触れていないとおっしゃいましたが、『弱くある自由』と『自己決定』とは深い関係があるということがわかってきました。実は本を読んだかぎりでは、なかなかピンとこなかったんですよ、難しすぎて(笑)。どういう読者をイメージして書かれたんですか?

これはもともと『現代思想』という雑誌に書いたものを中心にまとめたんです。『現代思想』というのは「何これ、わからんぞ」という文章が並んでいるような変な雑誌で、「わからなくて当たり前」という世界(笑)。だから実は「誰にでもわかるように」という配慮はしていないんです。

・・・でもいいこと書いてはるんで(笑)、これの普及版みたいなのがあればすごくいいと思うんですけど。

たまにそういう冗談を言う人がいますね(笑)。この本の前に出した『私的所有論』の漫画版が欲しいとか、口語訳版がいるとかね。「『源氏物語』みたいやな」と言われたんですよ。

・・・そう言った人の気持ち、わかります。朝日新聞の『論壇』に書かれたのはすごくわかりやすくて、「ああ、こういうことを書いてはったんや」と、やっとわかった(笑)。

あれは1200字くらいだから・・・かなり考えましたね。確かに反響もありました。でも結論しか書いてないんですよ、「そんなにがんばらんでええねん」と。そのわけは書いてない(笑)。一般読者は「あ、自分の感覚とマッチしてる、オッケー」みたいなとこでいいけど、玄人というか疑り深い人に対しては「俺が言うてることは嘘やないで。それはな・・・・・」ということを本のなかでじっくりと書いていく、ということですかね。

・ ・・なるほど・・・・・・。少し頭がこなれてきたところで、次回は家族や友人として『弱くある自由』や『自己決定』とどう関わっていくのか、ということをお聞きしたいと思います。

シリーズ2回目はこちら

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立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点

立岩真也(たていわ・しんや)
‘60年、佐渡島に生まれる。’90年、東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、信州大学医療技術短期大学部助教授。社会学専攻。著書:『私的所有論』(‘97年、勁草書房)、『弱くある自由へ 自己決定・介護・生死の技術』(‘00年、青土社)共著『生の技法』(‘90年藤原書店)