僕は、おすぎとピーコと友達なんだけど、この頃彼らは部落解放同盟から講演会の講師にとよくお呼びがかかるっていうのね。 「えっ、おすぎとピーコまで、差別の問題を話すんだ」 と、皆さん思うでしょう? しばらく前までの解放同盟だったら考えられない。おすぎとピーコが受けているゲイとしての差別もまた、人権問題ひいては部落問題につながっているということを踏まえ、少し遊び心も加えて、この頃の解放同盟は彼らを評価している。 ピーコがテレビ番組で司会を始めると、 「なんでオカマが毎日テレビに出るんだ」 と投書が来る。オカマが時々テレビに出ている分にはよくても、毎日だと許せないっていう。世間はまだそんななんですよね。 男性であって、女性の部分も持っているゲイの人たちは、性を乗り越えて生きている。というのは、民族を、思想を、職業を乗り越えるというのと同じだと僕は思う。人権問題には部落問題だけじゃなくて障害者問題や老人問題、男女共生問題、世界の難民キャンプの問題などもあるじゃないですか。差別というのはそうやっていろいろな事柄を乗り越えた時点で、なくなっていくものだと思うのね。そういう意味で、オカマまで仲間にしちゃってる最近の解放同盟は楽しい!と思うんです。 差別行為をした人を糾弾して反省させ、その差別事件が発生した背景まで追いかけてきた解放同盟は、永年差別と闘ってきたプロ。頭がさがります。だけど、敢えて言わせてもらうと、これまでの活動には、楽しさと優しさが見受けられませんでした。 誰にも、頭ではいけないことだと分かっていながら、ついうっかり不注意な発言をしてしまうことってあるじゃないですか。これまでの解放同盟は、そういう“うっかり”を認めませんでした。「うっかりの言葉の奥に差別意識がある」。それはそうなんですが、うっかり差別され、「気がつかなかった」という場合だってあると僕は思います。 でもこの頃は、ついうっかりの発言をしちゃった人にも、なごやかな雰囲気の中で、「あ、いけない」と思わせるような工夫が解放同盟にできてきた。言葉で傷つけあうより、言葉で少しずつ補っていこう、と懐が広くなってきた。その懐の広さは、楽しさと優しさのある「遊び心」から出てきたと思います。晩年思想を異にしたからと距離を置いていた西光万吉さんを再評価し、部落をルーツにする芸能全般を大切にし、部落以外の人権問題にも言及していっている、最近の解放同盟のいい意味での優しさですよね。
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