ふらっと 人権情報ネットワーク

ふらっとNOW



関東大震災100年 朝鮮人虐殺を忘れない 加藤直樹さん

2023/09/01


関東大震災100年 朝鮮人虐殺を忘れない 加藤直樹さん


近代的な生活の中で起きた大虐殺

 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東地方でマグニチュード7.9(最大震度7)の地震が発生しました。震源は相模湾沖から千葉房総沖にかけての一帯。地震発生時刻が昼食時間前で多くの家庭や食堂などで火を使っていたことから、大規模な火災があちこちで起きました。東京都心と横浜市は壊滅、10万棟が倒壊し、死者・行方不明者は10万5000人にのぼりました。

 後に関東大震災と名付けられたこの震災では、大規模な朝鮮人虐殺が起きました。今日はそのことをお話ししたいと思います。

 最初に前提としてお話ししたいのは、これはそんなに大昔の話ではないということです。たとえば電車で通勤する、デパートの上層階に食堂がある、カフェでコーヒーを飲み、夜になれば電気をつける。関東大震災の頃、すでに都市部には私たちがなじんでいる生活がありました。世代的に言えば、三世代前、1967年生まれである私の祖父母世代がすでに生きている時代です。

 本(『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』 ころから、2014年)を出したことからこのテーマで講演することが多いのですが、こんなことがありました。横浜での講演後、ひとりのおばあさんが近づいてきて、「私の祖父が関東大震災で殺されかかりました。幸い命は無事で、後に朝鮮に帰りました」と。柔和な笑みと裏腹の話にショックを受けました。朝鮮人虐殺については、多くの人が書き残しています。女優の清川虹子さんは当時12歳、火事を逃れて上野公園に避難してきました。自伝にこう書いています。

――後ですべてデマだとわかりましたが、そのどさくさでは確認のしようもなくて朝鮮人狩りが始まっていったのです。朝鮮人をひとり捕まえたと言って、音楽学校のそばにあった交番のあたりで男たちは手に手に棒切れを掴んでその朝鮮の男を叩き殺したのです。私はわけがわからないうえに恐怖で震えながらそれを見ていました。

 ちなみに、後にその清川さんと結婚する伴淳三郎さんも、清川さんがいた上野からそう遠くない荒川で虐殺を目撃しています。荒川にかかっていた橋に、殺された朝鮮人の遺体がたくさん転がっていて、そこに人々が石を投げつけて毀損していたと自伝に書いています。

 家電メーカー、シャープの創設者である早川徳次さんも虐殺を目撃しています。当時、早川さんは東京の下町でシャープペンシルの工場を経営しており、震災で大きな被害を受けました。その早川さんが雑誌でこう書いています。

――町で実際に朝鮮人が殺されているところを目撃したこともあった。歩きながら殺されていた。いきなり後ろから頭を割られ、それでも歩き続け、ついに倒れるとお腹や背中を金属の棒で突いているのである。こちらに力がないから止めることができず、もし止めていたら殺されていただろう。

 企業人である早川さんに会ったという人は少ないかもしれませんが、喜劇役者の清川虹子さんや伴淳三郎さんはテレビで見ていたという人が多いと思います。百年というのは、それぐらいの「近さ」なんですね。

 では、遠い過去ではない時代に、なぜこんなことが起きたのでしょうか。

怒りと不安に駆られた避難民が虐殺に走る

 虐殺の発端になったのは「流言」でした。さらにその発端となったのが大規模火災です。地震発生時刻が昼食時間直前の午前11時58分、さらにタイミングの悪いことに、台風に近いくらいの低気圧が来ており、非常に激しい風が吹いていました。そのため、地震で出た火があっという間に燃え広がったのです。しかも頻繁に風向きが変わり、東京と横浜の都心部は文字通り火に包まれました。

 東京市は44%、横浜市は80%が消失しました。東京市というのは今の東京都全域ではなく23区より少し小さい地域です。当時にぎやかだったところはすべて消失したと言っても過言ではないでしょう。

 延焼を止められなかったのには、当時の消防事情がありました。江戸時代には「火消し」という消防組織がありました。しかし明治以降の近代的な都市化の中で伝統的な消防組織は失われ、一方で近代的な消防組織は未発達という狭間にありました。たとえば何台かの消防車はあったのですが、地震で水道から水を汲み上げることができず使い物になりませんでした。消防隊が役に立たない状況のなかで、人々が火に巻かれ、家族バラバラになりながらどんどん避難していく状況になりました。

 火事から逃れ、避難できる場所は公園や河川敷など広い場所に限られています。上野公園や亀戸駅前、荒川にかかる橋・四ツ木橋や日比谷公園などに数万の人々が集まり、立錐の余地もない状況になっていきました。それぞれ一切合切の家財道具を積んだリヤカーを引いていました。すると今度はそのリヤカーに飛び火し、火が瞬く間に広がる。しかも高温旋風という非常に高い熱を帯びた炎の旋風が起こり、3万数千人が20分で亡くなったと言われています。

 やがて日が沈み、あたりは真っ暗になります。隣にどんな人がいるのかもわかりません。遠くの方では自分たちが逃げてきた所が今も焼けている炎が見えます。横浜ですと、多くの人が「横浜」としてイメージする場所がすべて消失し、人々は丘の上に逃げました。丘から見下ろすと、燃えている石油タンクが見えます。こういう状況で、人々の胸中に怒りや疑問が渦巻くわけです。「なぜこんなに火事が広がるのか」「なぜ自分の家が焼け、家族がバラバラになるのか」と。それが流言の温床になりました。後に警視庁が流言がいつ、どこから発生したかを調べた記録があります。それによると、9月1日午後3時には最初の流言が発生しました。その時は「社会主義者と朝鮮人が放火した」という内容だったようです。ただ、これがすぐ広がったわけではありません。他にもあちこちでこんな流言が発生しました。

 「富士山に大爆発ありて今尚大噴火中なり」
 「東京湾沿岸に猛烈なる大海嘯(潮津波)襲来して人畜の死傷多かるべし」
 「昨日の火災は、多くの不逞鮮人の放火又は爆弾の投擲に依るものなり」
 「上野精養軒前の井戸(井戸水)の変色せるは毒薬のためなり」
 「鮮人約二百名、中野署管内雑色方面より代々幡に進撃中なり」

 朝鮮人についてだけでなく、さまざまな流言がありました。しかし時間とともに次第に「朝鮮人」に絞られていきます。そして当初は漠然として空想的だった流言が「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「武器を持って襲ってくる」と具体的になっていきます。1日夜にはあちこちに広まり、その夜のうちに虐殺が始まりました。被災し避難してきた住民たちが即座に虐殺する側へとなったのです。

流言にお墨付きを与え虐殺を煽った警察と軍

 同時並行で、国の動きがありました。一夜明けた9月2日、震災の被害の甚大さに当時の政府は驚愕しました。そして真っ先に考えたのが、その数年前に起きた、大暴動と呼ぶべき米騒動です。そしてこの震災でも、食糧もなく避難してきた人々が暴動を起こすのではないかと発想し、恐怖を覚えたわけです。2日夕方には政府によって戒厳令が敷かれました。ところが、何を目的として何をせよと軍隊に指示するのかが曖昧なままでした。未だにこの戒厳令の名分は何だったのかが学者の間でも議論になっています。

 もうひとつ、警察の動きがありました。東京市内にあった63の警察署のうち、23が潰れたわけです。そこに各地から各警察署の管轄内に避難民が続々と入ってくる。続々と入ってきて、コントロールが効かなくなる。こうした状況で、現場の警察官がどんどん流言を信じていく事態となりました。「朝鮮人が責めてくる」という話を間に受けて、自警団と一緒に朝鮮人を追いかける警察官が出てくる。その警察官が中央の警視庁本庁に「今、爆弾を持った朝鮮人を捕まえました」という情報をあげていく。

 この時、警視庁・警視総監の下に官房主事という地位がありました。実質、警視庁のトップですが、ここにいたのが正力松太郎でした。後に読売新聞社を買い取り、今の保守新聞としての読売新聞を作った人物です。この正力松太郎は「特高の親玉」とも言われるほど、特高(特別高等警察)で剛腕を振るっていました。反政府運動を非常に強力に弾圧していたのです。

 その正力の耳に「朝鮮人が各地で爆弾を投げている」などという情報が入ってくる。当初は「まさか」と思っていましたが、続々と同様の情報が入ってくるため、ついに信じるに至ります。そして2日の夕刻に警視庁から各警察署に「各地で不逞な輩が暴動を起こしているという情報がある。厳しく取り締まれ」という通達を出してしまいます。警視庁が流言にお墨付きを与えてしまったわけで、これで虐殺に火がつき、拡大しました。「殺しても構わない」と言った警察署長が複数いたという証言があります。

 後に正力はこう述べています。

――朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常に疑心暗鬼に陥りまして、1日の終わり頃から朝鮮人が不穏な計画をしていると風評が伝えられ、私はさては朝鮮人が来襲すると信じるに至りました。

 さらに、流言を真実だと信じた正力は軍でも取り締まりをしようと軍の司令官と打ち合わせをしています。居合わせた朝日新聞の記者が、正力が「こうなったらやりましょう」と腕まくりをして叫んでいたと回想しています。ところが時間が過ぎていく中で、「朝鮮人来襲」などというものはないと次第に正力にはわかってきます。

――しかるに鮮人がなかなか東京に来襲しないので不思議に思っているうちにようやく夜の10時頃になってその来襲が虚報であることが判明いたしました。誠に面目ない次第であります

 面目ないでは済まない話です。軍隊も警察と同様でした。戒厳令を受けて軍隊がどんどん被災地に入ってきますが、先述した通り、具体的な命令を受けていない。そこに「朝鮮人が集まっている、進撃してくる」という話が上がってくる。それで軍も虐殺を始めます。

 自警団による虐殺もありました。各地で自警団がどんどん作られ、後に政府が調べたところでは、東京で1593、神奈川603、千葉366、埼玉300、群馬469、栃木19、合計3689の自警団が作られたと言われています。自警団というと確定したメンバーシップを持った組織だと思われますが、さまざまな証言を見ていると、そういう団体が虐殺をしたというより、群衆が朝鮮人を見つけ次第殺したという状況が多いです。

 では虐殺はどんな場所で起きたのでしょうか。特に虐殺が集中したのは、避難民が多く集まった場所です。上野公園、亀戸駅前、荒川河川敷と近くの四ツ木橋などでした。また、町の自警団が検問を敷いた場所でも多くの虐殺が行われました。さらに東京や横浜から遠く離れた遠隔地で起きた虐殺もかなりあります。たとえば埼玉県熊谷市では40~60人が殺されています。さらに北にある本庄市で100人、その東側の神保原村では42人が殺されています。

 被災地から遠く離れた地域で虐殺で起きたのにも行政の問題が絡んでいます。2日に戒厳令が敷かれ、警視庁が取り締まるよう通達を出したことは先述しました。当時、警察を所管していた内務省が全国に「朝鮮人が暴動を起こしている」との通達を出しています。それを受けて各県の知事が地域に「自警団を作れ」と指示する。そこに避難民が東京から続々とやってきて、口々に「今、東京では日本人と朝鮮人とで戦争になっている」「日本軍が壊滅した」といった流言とともに「仕返しをしてくれ」というわけです。熊谷市は小さい街にもかかわらず、行政から「各世帯から男手を一人出せ」という指示が出され、住民が竹槍を持ってウロウロするという事態になりました。

 一方で、警察は3日には「これはおかしいぞ」と思い始めます。捕まえた朝鮮人をいくら調べても犯罪の事実が出てこない。しかし正面から自分たちの間違いを認めることができません。「昨日来一部不逞鮮人の妄動ありたるも、今や厳重なる警戒に依り其跡を絶ち...(朝鮮人に)暴行を加ふる等無之様注意せられたく」というような曖昧な言い方のビラを撒くだけでした。警察は朝鮮人を保護する方針に転じますが、暴動という流言をきちんと否定しないために興奮した住民を抑えることができません。最終的に「ありもせぬことを言いふらすと罰せられます」というビラを撒き、治安維持法という法律を作ってようやく沈静化しました。すでに9月7日になっていました。

一人ひとりが「差別の論理」を許さない姿勢を

 こうした状況下で、いったいどれくらいの人が殺されたのか。実は未だにわかりません。震災直後、流言にお墨付きを与え、軍や警察を煽った政府がすべて曖昧にすることで国民の追及をかわそうとしたからです。

 たとえば「検挙は警察に対して反抗の事実があったものに限る」とした文書が残っています。そのため朝鮮人殺人事件として立件された事件の犠牲者は233人です。数々の証言からすると、あり得ない少なさです。遺骨を朝鮮人と日本人の区別がつかないように処分しろという文書も残っています。

 多くの証言やその後の調査から、数千人という規模で人が殺されたのは間違いありません。では、なぜこれだけの虐殺が起きたのか。私はそこに「差別の論理」「治安の論理」「軍事の論理」という3つの論理があったと考えています。

 まず、差別の論理。当初さまざま内容だった流言が次第に「朝鮮人」に絞られていったと先述しました。これこそがまさに「差別」です。

 震災の13年前に日本は韓国を併合しました。その時に日本人の朝鮮人に対する「こいつらは自分たちより下なんだ」という蔑視が決定的になったと思います。そのうえ震災の3年前に起きた3・1独立運動によって「いつか復讐してくるかもしれない」という恐怖心が芽生えました。流言で度々使われた「不逞鮮人」という言葉は「けしからん朝鮮人」という意味で、3・1独立運動の後に日常的にメディアに踊るようになりました。これが「朝鮮人は恐ろしいやつらだ」いうイメージを作り上げ、流言を広げる下地となりました。

 自分たち日本人より下の、しかしいつ復讐してくるかわからない恐ろしい存在。いざとなったら殺してもいい存在。差別の論理を共有した日本人によって大虐殺は行われました。

 治安の論理とは、被災した人々よりも国や行政のコントロールを守り、回復することを優先することです。震災の2ヶ月後に国会で「警察が流言を広げたじゃないか」と質問した議員に対して、後藤内務大臣は「あの時は必要だったから流言を広げた。結果的にそれで治安が守られたんだからよかったじゃないか」という趣旨のことまで述べています。マイノリティの人権や命は治安のために犠牲になっても仕方ないと思われている。これは今にも通じる話です。

 そして軍事の論理。当時の日本軍はシベリア出兵や間島出兵、あるいは朝鮮の義兵闘争弾圧のなかで丸腰の住民や捕虜を殺害する戦争を行っていました。そうした経験を持つ部隊が、戒厳令によって東京に進駐してきました。

 これは市民についても言えます。普通の人にとって、誰かを殺してもいいと思っても、実際に殺すのは簡単ではありません。ところが当時の社会には、軍隊でそうした経験をした人がたくさんいたのです。

 これが軍事の論理です。民衆を殺す植民地戦争が東京で再演されたのです。

 政府や警察を批判してきましたが、市民も進んで虐殺に加わったという事実から目を背けてはいけません。東日本大震災には、現在の私たちが学ぶべき教訓がたくさんあります。

 まず、災害時の差別的流言を許さないこと。阪神淡路大震災(95年)、東日本大震災(11年)、広島土砂災害(14年)や熊本地震(16年)でも流言が発生しています。

 次に、差別的流言の拡散やそれによる暴力を行政が防ぐべきこと。これについてはいい試みも行なわれています。大阪北部地震に際して法務省人権擁護局はこのようにツイートしました。「本日発生した地震で被災した方々及びその関係者の方々に心からお見舞い申し上げます。なお、災害発生時には、インターネット上に、差別や偏見を煽る意図で虚偽の情報が投稿されている可能性もあり得ますので、その真偽をよく確かめてから冷静に行動しましょう」(2018年6月18日)

 これを産経新聞から朝日新聞まで主義主張にかかわらず、「差別的なデマが広がる可能性があるから気をつけよう」という記事を掲載しました。行政当局が「差別を許さない」という姿勢を持っているかどうかがとても大きいということです。

 災害時にどんな流言が拡散するかは、それ以前の社会の認識に規定されることは関東大震災が残した大きな教訓です。そういう意味では、小池百合子東京都知事の追悼文取りやめや荒唐無稽な「虐殺否定論」を見過ごさない、普段から差別を許さない姿勢を私たちが自身が強く持つことが重要です。

 関東大震災での大虐殺は、震災後に突如として起きたのではありません。1923年8月31日までに準備されていたものが震災を機に虐殺として現れたのです。私たちは常に8月31日までの世界を生きています。民族差別が容認されない社会をつくり、災害時の差別的流言を許さない行政を育てることが、災害時のヘイトクライムの再来を防ぐことになると思います。