ふらっとへの手紙 黒田芳孝さん(ニックネーム 綾) fromLGBT vol.3
2014/07/04
ここ数年で「LGBT」という言葉が広まったのはいいのですが、広がったがゆえのマイナスも感じています。
私自身、あえていえば「トランスジェンダー」です。男に生まれ、男として育ち、生きてきましたが、現在は女性ホルモンの投与を受け、女装しています。
初めて「このままでは無理だ」と思ったのは、妻と息子に逃げられた時でした。当時は完全に「男」として生活していました。けれども家族にとっては夫としても父親としても失格だったのでしょう。会社でもろくでもない状態で、つくづく「自分は男としてはダメだな」と思いました。
それまでずっと「男」として社会的に認められるよう、がんばってきました。結婚して子どもが生まれ、家も買いました。セクシュアリティのことなど考えたこともなかったし、むしろ同性愛に対しては強い差別意識をもっていました。いわゆるホモフォビアです。
家族が出ていった家で、「自分はなんでここにいるのかな」「これからどうやって生きていこうか」などと考えていました。2001年に起きた9.11(アメリカ同時多発テロ事件)の直後だったので、テレビでは大きなビルが崩れ落ちる映像が繰り返し流されていました。その映像を見ながら、ふと「男をやめたらいいやん」と思ったんです。そして次の瞬間、「女になる」という考えが浮かびました。今考えると、女性に対して失礼な話だし、そんな簡単なことじゃないんですけど、その時はそう思ったんです。
まず、量販店に行ってこそっと女性用の服を買いました。百貨店の化粧品売り場で「化粧したいんですけど」と相談して、メイクのやり方を教えてもらいました。
その頃はLGBTという言葉もなかったし、何より自分自身まったく知識がありませんでした。辛うじて「性同一障害」という言葉は知っていたけど、自分が当てはまるとは思っていませんでしたね。当然、セクシュアルマイノリティの当事者との接点もなく、まったく一人で、手探りでやってました。
でも無理なんですよ。土台が「男」ですから。体つきはゴツゴツしてるし、肌の手入れもしていなかったから、誰が見ても「女装したおじさん」になってしまう。ですから外に出たらひどいことになるわけです。ジロジロ見られたり、笑われたりしました。
それでも女装をやめずにいられたのは、昔からやっていたボランティア活動のつながりで、少しずつレズビアンやトランスジェンダーなどセクシュアルマイノリティの人たちとのつながりができてきたからです。ヘンな目で見られて傷つくことはあっても女装することの居心地は悪くなかったし、「もう"男"には戻れない、戻りたくない。これがダメだったらもう自分の行く道はない」と切羽詰まった気持ちもありました。つながりが広がるのと並行してセクシュアリティに関する勉強もし、自分の感覚を大事にすればいいと確信をもてるようになりました。
勤めていた会社は辞めさせられました。はっきり解雇と言われてはいませんが、女装をするようになってから明らかに職場の空気が変わり、いたたまれない状況に追い詰められました。
それから仕事を見つけようといろいろチャレンジしようとしましたが、ことごとくダメでした。人の役に立てたらと福祉施設も何件も応募しましたが書類の段階で落とされます。履歴書を見れば、男の名前で女装していることがすぐわかりますから。やっと面接までこぎつけたところでも「私はよかったとしても利用者や家族がね」と言われました。今はラブホテルで夜勤もしながら働いています。
女性ホルモンの投与を受けていますが、いわゆる婦人科の看板をあげていてもトランスジェンダーや性同一性障害について何も知らないドクターもいます。女性ホルモンの注射をしてもらうために、地方から高い交通費を払って都会に出てくる人もいます。
「多様性が大事」「共生社会をつくっていこう」と言うのは簡単ですが、仕事に就けない、ホルモン注射1本にも大変な思いをするという現実とのギャップが大きくて、「多様性とか共生って何なの?」という疑問がずっとあります。
こういう自分はいったい「何」に属するのでしょうか。自分でも「こうです」と言い切れないのです。体を「女」に変えたいわけではない。けれど「男」でもない。心は「女」で、恋愛対象は「男」ではなく「女」です。
今の自分になってから、さんざん説明を求められました。特にヘテロ(異性愛者)の人は露骨に訊いてきますね。「男が好きなの?」「体が男ということはゲイなの?」「手術はしないの?」と。恋愛対象が女性だといえば、「女が好きなら男のままでいいんじゃないの?」と言われたこともあります。
すっかり"説明疲れ"しました。訊くこと自体が人権侵害だということもわからない。つくづく教育不足を感じ、数年前から性やセクシュアリティに関する講座や講演を始めました。
私たちは一人ひとり違います。共生というゴールを設定するのはいいのですが、一斉にヨーイドンとやるのではなく、いろいろな進み方があるのを認め合いたい。一人で進みたい人もいれば、助け合いたい人もいる。自分(たち)とは違う進み方をする人間を非難したり排除したりしないこと。それこそが多様性だと思います。(2014年4月談)