ココルームとのかかわりは、2004年にさかのぼります。当時は京都に住み、地域通貨に関心があったのが縁で柳原銀行記念資料館の事務局の仕事を手伝っていました。釜ヶ崎の「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」でも地域通貨を取り入れていると知り、ボランティアをしていた友人に頼んで見学させてもらったんです。それがきっかけで、やはり再生フォーラムの事務局をお手伝いするようになりました。ちょうど、釜ヶ崎のおじさんたちの紙芝居劇「むすび」の前身「ごえん」の活動が始まるなど、いろいろな活動をしている人たちと出会い、おもしろいまちだなと思いました。 そんな時に、まだフェスティバルゲート内にあったココルームの存在を知り、客として訪れるようになったんです。しばらくして「スタッフが辞めるので人手が足りなくなる」と聞き、まだスケジュールに余裕があったので「それなら手伝います」と申し出ました。 来客の対応をするぐらいに考えていたので、初日から「カレーを仕込んで」と言われ面くらいました。でも、もともと料理は好きだったので、どんどん作らせてもらいながら仕事を覚えました。不特定多数の人と接するのは得意ではないので、慣れないうちは大変でしたが、「これも修行だ」と思って(笑)。なにより、たくさん集まってくる面白い人たちから得る刺激が捨てがたかったんです。ぼくは大学院を中退し、フリーランスで専門の地理学の研究を続けています。こういう形で研究を続けるという気持ちがしっかり固まったのは、ココルームのスタッフたちがさまざまな活動をしながら、それぞれが自立した個人事業主としてやっている姿を見ることができたからだと思います。
ココルームが釜ヶ崎に移転すると、客層も雰囲気もがらりと変わりました。フェスティバルゲートにあった頃は、アートのさまざまなジャンルで自覚的に表現活動をしている人たちが多かったのですが、釜ヶ崎に来てからは何をやってるのかわからないけど面白い人が増えました。日雇いの仕事をしてきた人や職人さんもいます。 もともと地域通貨をやっていたということもありますが、お金じゃないところで動いている価値に関心があります。ココルームではたしかにお金以外のたくさんのもの――言葉やつながりといったものが流通しているように感じます。そのなかに身を置けるというのは、お金とは違う尺度で見れば裕福だと思います。ただ、やっぱり目に見えにくい。言葉にできないものの比重が大きいぶん、身を置いてみないとわかりにくいでしょうね。全国から関心をもって訪ねてくる人たちがいる一方で、実際にまわしていくスタッフは常に人手不足なのは無理もないのかもしれません。 ぼく自身は、ココルームにくる人たちに刺激を受けたと同時に、仕事の幅を広げることもできました。ココルームの名前は広く知られるようになったので、ここで働いているということが名刺代わりとなってさまざまな人とつながり、仕事をまわしてもらったことも何度もあります。また、釜ヶ崎に移ってからは料理をする量が増えました。店に出るのは週に一度ですが、仕入れからすべて任せてもらっているので鍛えられます。ココルームを通じて出会った人からの依頼で、ケータリングやイベントでの屋台など単発の仕事がくることもあります。こうした経験を重ねたり、親しくなった料理人の方からアドバイスをいただいたりするうちに、「プロフェッショナルとして料理を出したい」という気持ちが強くなり、調理師の免許も取りました。大阪での仕事が広がるにつれて、住まいも京都から大阪に移しました。 ぼくは常勤のスタッフになったことはなく、つかず離れずかかわってきたのですが、こうしてふり返ってみると思っていた以上に影響を受けていますね。上田さんが新しいことをしようとする時のビジョンというのは、ぼくには見えたためしがないんですけど(笑)、結果的にうまくいったり面白いことになったりしているので、このまま見守っていこうと思います。(2009年11月にインタビュー。2010年6月をもって退職)
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●こえとことばとこころの部屋(ココルーム)のHP http://www.cocoroom.org/
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