ふらっとへの手紙from西宮vol.4
2010/07/23
元営業マンだった夫がアルツハイマー型認知症と診断されたのが66歳の時。介護を始めて4年半になります。当初、車で通い慣れた道を間違えたり、海外旅行先で迷子になったりが続き、おかしいなと病院にかかったのが始まりでした。
医療に対してまず最初に疑問に感じたのが告知の方法。家族の了解なしに、夫にだけ別室で病名が宣告されたのです。とはいえ、おろおろするしかなかったの私たち家族には、抗議するほどの余裕などありませんでした。デイサービスを利用しての在宅介護が、その日から始まったのです。
そのうち徘徊の症状が出始め、その付き添いに明け暮れる毎日。とうとう限界を感じ、2年目から精神科の病院に入院しました。認知症とはいえ、精神科病棟は拘束が多く、患者の外出は許されませんし、家族の面会にもその都度カギが必要でした。
その頃です。藁をもつかむ思いで参加した西宮市社会福祉協議会(社協)の認知症介護者の会「さくら会」で、つどい場「さくらちゃん」の代表・丸尾多重子さん(丸ちゃん)と出会ったのです。当時は「夫を入院させてしまった」という自責の念と、「でもその道しかなかったんだ」という現実の思いが錯綜する日々。誘われて訪ねた「さくらちゃん」の玄関で、丸ちゃんから「ああ、いらっしゃい!」と迎えられた瞬間、その雰囲気に「心からホッとした」のを覚えています。
丸ちゃんや周りの方の介護体験を聞いていくうちに、もう10数年と介護を続けている方が何人もおられて驚きました。私は1年そこそこの介護でどうしていいか分からず、悩んで、落ち込んで、泣き続けてた......。言葉では表現できないくらい精神的にラクになれました。アルツハイマーについてももっと勉強しなければと、元気をもらってセミナーやイベントにも参加。勉強をしていくうちに、夫との関わり方も違ってくるようになった。また、情報を得たり学んだりすることで、将来的な不安も薄らいでいきました。
それと前後して、夫は以前から申し込んでいた老人保健施設(老健)へ転入できたのですが、暴力(?)が出るようになりました。きっと家に帰りたかっただけなのに......。勝手にドアから出ようとしてスタッフに阻止され、その手を払いのける動作をくり返したり、後には車椅子をけ飛ばす行為も。家族に何の相談も承諾もなく、以前の精神科へ再入院が決まりました。
当時は、まだ元気で記憶力も少し残っていて会話も普通にできていた夫。精神科に入る時には前の記憶が甦ったのか、大声でわめき暴れて入院を拒む夫を、大柄の介護士さん3~4人が抱え強引に病棟に連れて行きました。その時の光景は私の脳裏に鮮明に焼き付いていて、一生忘れることができません。それから10日間家族にも面会は許されず、その後に会った夫は、薬のせいか廃人のように顔に表情がなく、もぬけの殻になっていた。環境が変わるたび症状が悪化していきました。
その1年後、特別養護老人ホーム(特養)に入所できましたが、もう歩行も困難で車椅子生活。記憶もほとんどなくなって家族も介護者も区別ができない状態でした。現在はさらに進行して支えられても足に力が入らず、歩行はまったくできません。会話もこちらから話しかけるとうなずく程度。食欲もなく、眠気がすごくて、叩いてもゆすっても起きられない状態になったこともありました。「さくらちゃん」で、「薬はなるべく飲まない方がいい」「薬をやめて良くなった」という方の話を聞いていたので、以前入院していた精神科医に相談。病気の進行で嚥下力が落ちてるのかもしれないが、体力が弱って薬が効き過ぎかもしれないと減薬することになりました。その影響でしょうか、食欲が出て今は食べ過ぎるぐらい。目の輝きも違ってきました。
ゆくゆくは在宅介護をと思っていましたが、「身体が大きい夫を年を重ねた私が看るのでは老老介護になって無理だ」と娘たちに反対され、特養での終末の看取りを覚悟しました。でも、夫は家に帰りたいでしょうから、特養から家に連れて帰ってのデイサービスやショートステイ、言い換えれば、「逆デイサービス」「逆ショートステイ」を続けています。
こうした柔軟な考えで介護ができるのも「さくらちゃん」のお陰。何か不安な問題が起きるたびに泣きながら相談できる場所であり、さくらちゃんは私にとって今ではもうなくてはならない存在です。丸ちゃんの声を聴いたり、仲間のみなさんとしゃべってると夫のことを忘れて笑ってることもたびたび。以前は大変としか思えなかった介護なのに、今は夫のことが愛しいと思えるまでになりました。(談)
●「つどい場さくらちゃん」のHP
http://www.tsudoiba-sakurachan.com/