Q5.明治時代に身分制度は廃止されたはずですが・・。
差別は残り、その上にあらたな差別意識も生じました。
明治政府は封建的身分を廃止し、部落の人たちについても1871(明治4)年の【「解放令」(コラム)】により、「えた・ひにん等の称号を廃し、今後、身分・職業とも平民同様たるべきこと」としました。これにより、少なくとも法制度上においては、部落の人びとも他の平民と同じ扱いを受ける権利が認められたのです。
部落差別の法的根拠がなくなったことは、歴史上の大きな変化でした。例えば、それまで神社の祭礼などに部落の人びとは参加させてもらえないことが多くありました。しかし明治以後の民事裁判においては、部落の人びとの祭礼への参加を認めさせる判決が下されています。また学校教育制度が整備されると、部落と部落外の子どもは、原則的には同じ教室で勉強することができました。このように明治期の政治変革は、部落の人びとにも社会参加への扉を開くことになりました。
しかし法律上の平等が認められたにもかかわらず、伝統的な慣習上の差別は容易にはなくなりませんでした。例えば教育においても、部落だけ別の学校となったり、教室で席を隣りにしないなどといった差別がありました。また政府は近代的な国家建設に向けて、衛生、教育、勤勉、といった社会的な価値規範の普及に力を入れてゆきます。その結果、貧困で低位な生活状況にあった部落の人びとは、「未開」や「劣等」などの負のイメージでとらえられるようになりました。
このような時代背景のもと、明治以後も部落の人びとに対するあらたな差別意識が形成されていったのです。そして「特殊部落」などの差別的呼称とともに社会に広がっていきました。
【「解放令」(コラム)】
身分はほんとに「解放」された?
明治政府が部落の人びとを「解放」した背景にはどのような事情があったのでしょうか?
当時の政府は、近代的な国家制度の確立を急いでいました。そのためには身分ごとに異なっていた諸制度の変革が必要とされ、これが「解放令」発布の直接のきっかけとなります。よって「解放令」は、差別を解消するというよりは、人びとを同一の統治システムに組み込むという性格の強いものだったのです。
またその一方、政府は華族や士族の身分を編成してゆきました。とくに近世の公家や大名、維新の功労者たちからなる華族には爵位が定められ、特権があたえられました。
このように、実は明治時代にも身分制度が完全に廃止されたわけではなかったのです。