パラリンピックとは
2019/04/10
2. パラリンピックの歴史
(1) パラリンピックにおける背景
パラリンピックの成り立ちは、今から70年以上前の話ですが、第二次世界大戦中、脊髄を負傷した兵士の治療のためにロンドン郊外のストーク・マンデビル病院でリハビリテーションのプログラムをスタートさせたのがそもそもの始まりです。
この病院の中心人物は後に「パラリンピックの父」と呼ばれるようになったルートヴィヒ・グッドマン博士です。彼にはとても有名な言葉があります。「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」という教えです。まさに戦争による負傷や手や足を失って動けなくなった結果、自分の能力が失われてしまい、自分の存在理由さえも失いかけていた、そのような患者たちにスポーツを通じて生きる喜びや希望を与え、可能性を拡めたのがグッドマン博士でした。
1948年にはグッドマン博士の提唱でこのストーク・マンデビル病院でロンドンオリンピック開会式の日にアーチェリー大会を開催しました。アーチェリーは矢を的に当てる競技です。体勢のバランスの悪かった車イス利用者や脊髄損傷者が的に狙いをつけて集中するうちに自分なりに姿勢を保持しようと試みます。その動きがリハビリテーションにつながりました。
この試みがその後スポーツ大会として定着し、「ストーク・マンデビル大会」といわれるものになりました。そして1952年にはオランダチームが参加し、国際競技会としての位置づけがスタートします。
(2) 国際大会への飛躍
1960年にローマでオリンピックが開催され、同じ場所で「国際ストーク・マンデビル大会」が23ヵ国、400人の参加者によって開催されました。後になりますが、この大会を「第1回パラリンピック・ローマ大会」と呼ぶようになりました。
1964年は東京オリンピックの時に「第2回ストーク・マンデビル大会」も東京で開催されました。この時に"パラリンピック"という言葉が初めて使われるようになり、「第2回パラリンピック」と呼ばれるようになりました(この東京大会の誘致に尽力した中村 裕博士については後述します)。
しかしこの大会では、残念ながら車イスの選手のみの大会でした。それが1976年のカナダ・トロント大会から、切断者や視覚障がい者の選手たちも参加できるように、枠が拡げられました。
(3) 「リハビリ大会」から「競技の大会」へ
パラリンピックの正式名称が使われるようになったのは、1988年のソウル大会からです。そしてその後、この名前とともに、より競技性の高いスポーツ大会として再スタートを切ることになりました。
その翌年1989年に国際パラリンピック委員会(IPC)がドイツのボンで設立されました。1981年を国際連合が「国際障害者年」と定めたことを契機に障がい者に対するさまざまな施策が取り組まれましたが、その中に「完全参加と平等」という理念が謳われました。これを受けて世界では、「障がい者のスポーツ参加率をあげていく」、「障がい者も競技性の高いスポーツを行っていく」という機運が高まっていきました。
そして2001年、IOCとIPCの合意により「もう一つのオリンピック」と呼ばれるパラリンピックに成長していくことになりました。
<パラリンピックの変遷>
出典:「パラリンピックを学ぶ」より