「貧しくて危険な地区」
ぼくらが育ったまちを見る目は厳しい
KONISHIKI ぼくがハワイ出身だということを知ってる人は多いと思う。でもハワイと いえば、日本の人にとってはワイキキ・ビーチに一流ホテル、ブランド物のショッピングというイメージでしょ。
ぼくが生まれ育ったワイアナエ地区は、そんなイメージとはほど遠い。多くの家庭が何らかの生活援助を受けている。犯罪に走ったり薬物中毒になったりする人も多くて、ハワイのなかでは「貧しくて危険な地区」として知られているんだ。ワイアナエ出身と聞けば、みんな友だちになりたがらない。「乱暴で、泥棒や薬物中毒者が多い」っていうイメージしかないの。
谷川 ぼくが生まれ育った大阪・西成という地域とよく似ています。西成は全国で最大の被差別部落と西日本最大の日雇い労働市場「釜ヶ崎」がある。
在日コリアンの方々も多く住んでいるし、生活保護を受けている世帯数が大阪で一番多いんです。全国的にも「西成」と聞けば「ああ、あそこね」という反応が返ってくるほど、ダーティーなイメージが強いまちです。
KONISHIKI 一緒だね。貧しいからこそ、子どもたちにはたくましく生きる力はある。笑顔だってある。だけど勉強にはなかなか興味がもてない。というより、一日でも早く家族のために稼ぎたいという気持ちがあるから、麻薬の売買なんかにすぐ手を出しちゃうんだ。
学校は「最悪」だしね。古くてエアコンもないから暑くて勉強どころじゃない。同じ公立小学校なのに、よその地区の小学校はエアコンがついてるし、新しいライブラリーだってあるんだよ。国からハワイ州に下りる教育予算、本当ならフェアに分けるはずなのにウチの地区だけ少ないの。貧しい割に、みんな文句を言わない。
この間、ワイアナエの小学校で講演をしたんだ。「おまえたち、ワイアナエがよその人たちからどう言われてるか、知ってる?」と訊いたら、「知ってる!泥棒!ヤク中!」だって。ぼくが小学生だった頃と同じことを言ってるの。ビックリしたよ。30数年間、何も変わっていない。
谷川 よくわかります。1960年代、日本全体が高度経済成長でどんどんよくなっていく時代も、ぼくらのまちは取り残されていった。よその学校にはプールがあるのに、ぼくらの学校にはない。最新の設備はいつも遅れてやってくるのが不思議だった。
今、ぼくも参加している部落解放運動が功を奏して、ぼくらのまちの環境はかなり改善されてきているんですけど。
KONISHIKI うちの地区はね、外から出入りできる道が1本しかないの。だから少しでも変化があればすぐわかる。5年前、子どもたちが野球をする公園がようやく少し手入れされた。何十年も前からあるのに、やっとだよ。母校の小学校も今年になって改修された。でも学校の学力レベルはなかなか上がらない。
谷川 それはぼくらも一緒。いろんな施設や学校が立派になっても、子どもたちの学力は他の地区の子どもたちと比べるとすごい格差がある。しかもぼくたちの調査によると、地区内で高校を卒業する子どもたちは約6割です。
KONISHIKI うちは中学3年から高校3年までの間に半数が学校をやめている。地元にふたつの高校があるんだけど、両方あわせて大学進学率は2%にもならない。
貧乏から抜け出したい一心でがんばった。
今度は子どもたちにチャンスを
谷川 学校を中退する理由は経済的な問題?
KONISHIKI それもある。親の薬物中毒や育児放棄が原因で親と離れて暮らしている子どもも多い。するとつい生活が不規則になったり、勉強に意欲がもてなかったりするんだよね。おまけにハワイの土地は年々高くなっているから税金も上がる。払えない人は家を手放すしかない。うちの地区では毎年100人以上がホームレスになっていく。海辺で生活してるんだよ。
地区内の小学校では、今年は100人以上の生徒がホームレスだし、9割近くがランチ補助をはじめ何らかの公的援助を受けている。生活が不安定だと、落ち着いて勉強する気にはなれないよね。
谷川 KONISHIKIさん自身はよく勉強したんですか?
KONISHIKI ぼくは中学3年の時に学校を替わったの。地元の学校に通ってたんだけど、地区外の進学校への転校を勧めてくれる人がいて、編入試験を受けたんだ。入ったらビックリしたよ。地元の学校とは勉強の内容が全然違う。たとえば地元では中学3年で習うことを小学6年生ぐらいで勉強してるから、「うわ、やばいぞ」と思った。
でもアメリカンフットボールをやりたかったの。いい成績を取れなければ、練習にも出してもらえないという規則があったんだ。だから必死で勉強したね。
同級生たちは、大学教授や社長の子どもばっかり。彼らは今、弁護士や歯医者、大学教授になってるよ。でも地元の同級生たちは麻薬で刑務所に入ったとか・・・。殺されたやつも何人かいる。成功した話はほとんど聞かない。
ぼくは在学中に相撲にスカウトされて、卒業と同時に日本へ来た。相撲が何なのかもよく知らなかったけど、「がんばれば稼げる」と聞いて。早く親を楽にしてやりたかったんだ。
谷川 転校を勧めてくれた先生がいたことが、人生が変わるきっかけになったんですね。ぼくの場合は、小学校時代の先生の影響が大きいなあ。
ぼくの家も貧乏だった。そんなぼくに「貧乏の連鎖を断ち切らないとダメだ。そのためにはまず勉強だ」というようなことを何度も言うんです。そのうちぼく自身が「早く一人前になって働いて親を楽にしてやりたい」「そのためにはしっかり勉強しないとダメだ」と考えるようになりましたね。
KONISHIKI チャンスを与えてくれる人、教えてくれる人がいるかどうかが大きいよね。だからぼくは相撲の世界から離れた時、KONISHIKI基金をつくって、地元の子どもたちに少しでもチャンスを与えたいと思ったんだ。
子どもたちは本当に素直で、覚えるのが早い。ひとつ何かをつかめば、どんどん成長していく。この間、ハワイのレコーディングスタジオに地域の子どもたちを連れて行ってね。「おまえたち、アーッと声を出してごらん」といろんなコードを教えて声を出させたの。彼らは最初「何やってんだ?」って顔してたけど、録音した声を全部重ねてハーモニーにしたものを聴かせたら「うわあっ」ってすごく驚いて興奮して。もう止められない(笑)。「もっと! もっと!!」って何度も歌ったよ。こういう経験が大事なんだ。
谷川 その子たちのなかから歌手になる子が出てきたりしてね。
KONISHIKI 絶対いる。すごく歌がうまい子がいるんだ。その子は絶対に歌手になるよ。
谷川 ぼくは部落解放運動に参加して、劣悪な住環境や低学力などの教育問題が「差別」の結果だと知った。そして「自分も部落解放運動に参加すれば、自分のまちを変えられるんじゃないか、いや変えてみせる」と思った。今度は地域の子どもたちに、「厳しい環境にあるけど、差別や偏見はなくすことができる」「自分もやればできる」ということを少しでも多く伝えたい、経験させてやりたいんです。
KONISHIKI そう。1997年に初めて35人の子どもたちを日本に招待した。今、そのうち20人ぐらいが大学に通ってるよ。地元の高校の先生を目指してる子もいる。
谷川 「子育ては親の責任」と言われる。確かにそうだけど、日々の生活に追われる親は、子どもの教育や将来のことまでなかなか考えられない。親自身が十分な教育を受けられなかったこともあるだろうし。そのぶん、誰かが子どもたちに希望や可能性を示してやれたらいいですよね。それが”運動”だと思うし、地域の教育力や親の教育力を高めることにもつながっていくんじゃないかな。
KONISHIKI 長い歴史があるから簡単なことではないとわかってる。でもKONISHIKIキッズの子どもたちには、「自分たちのまちをもっとよくしたい」という気持ちをもってほしい。そして彼らがおとなになった時、「ワイアナエは安心して住めるまちだよ」「誰でも住めるよ」と人を温かく迎えてほしいんだ。それがKONISHIKI基金の理念でもある。キッズの子どもたちがほかの子どもたちにもこの思いを伝えてくれたら、“成功”だと思う。
谷川 その理念を自分のものにした子どもたちが親になった時、貧しさの連鎖を断ち切れるかもしれない。それがぼくなりの言い方をすれば「まちを変える」ということなんですけど。
KONISHIKI 大きい夢をもってるね、おれたち。難しい問題もあるけど、「絶対に変える」という強い気持ちがある。だから何とかなるね。死ぬまでには何とかなると思う(笑)。
谷川 強い気持ちになれるのは、ぼくたち自身が「変える」ことを経験してきたから。「貧乏に負けたくない」とがんばったし、「おまえならやれる」と勇気づけてくれる人がいた。そのなかで、「自分には状況を変えられるだけの力がある」と感じられた。今度はぼくたちがそれを子どもたちに伝える番なんだと思う。
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