「男の子は泣いちゃダメ」「男は強くなければ」・・・。多くの男性は、そんなふうに言われて育ってきたのではないでしょうか。「男らしくありたいと思うがために、男性には“ドッジボール”は得意でも、“キャッチボール”が下手な人が多いのでは? 男らしさにとらわれず、がんばらないで生きたらラクになりますよ」と言うのは、メンズリブ活動をする中村彰さん。自身の来し方を振り返りながら、ジェンダーの目による「男というもの」の分析とともに男性へのメッセージを語っていただきました。 「痛い」と言えなかった父親 団塊の世代の私たちは、ある意味、古い価値観に「ノー」と言い、何かと新しいムーブメントを作ってきたつもりの世代です。長じては「ニューファミリー」「友達夫婦」などと呼ばれ、旧来型の家族観と異なる価値観を産み出した面はあるでしょう。しかし、「男として」の部分は、多くは上の世代とさほど変わらなかったように思えます。
私の父親が生前、胃潰瘍になり、胃カメラを飲むことになったとき。医師に、「痛くありませんか」と問いかけられても、「痛い」と言わなかった。医師は「我慢強い人」と認識しただろうと思うのですが、あとで父はぽつりと「あの感覚が、痛いということなのか」と言った。つまり、彼は痛くなかったのではなく、「痛い」と言う感覚を言葉で表現できなかった。あるいは、美しく紅葉した木々を見ても、「きれい」という言葉を口にすることができなかった。
なぜか。それは、感情をあらわにすることをためらう「男らしさ」の価値観を持っていたから。感情のアヤを伝える言葉を口にすることを学習してこなかったからでしょう。
そんな父親世代よりは少しはマシかもしれませんが、団塊の世代の私たち男も、その後の世代の男も、女性に比べると感情を口にするのが下手だと思います。 私自身は、都市近郊農村の三世代家族の長男として育ち、幼いころから、家族みんなが一家の「長」である祖父の顔色を見ながら暮らしていることに気づいていました。父親との会話が苦手で、同時に、長男としての暗黙の期待を感じて、いわゆる「家」の重圧に押しつぶされそうだった。自分のしたいことを、はっきりと訴えることができずに悶々としながら「がんばる」ばかり。その結果、私もまた喜怒哀楽など自己表現をするのが苦手な人間になったようです。 |