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物語 「あの夏、一番しずかな海。」のワンシーン

 清掃車のアルバイトをしている茂には、生まれつきの聴覚障害がある。ある日、茂は海岸沿いのゴミ集積所に捨てられていた、先が折れたサーフボードになぜか心ひかれて持ち帰ることにする。折れた部分に削った発泡スチロールを継ぎ合わせ、ガムテープを巻いて色を塗る。そうしてできた自分のサーフボードを手に、同じ障害がある恋人の貴子と共に茂は海へ通い始めた。水着姿で失敗を繰り返す茂を、ウェットスーツを着込んだ常連サーファーたちは呆れ顔で笑うが、茂はめげることなくチャレンジし続ける。貴子はそんな茂を砂浜からじっと見守るのだった。
 やがてサーフボードは壊れてしまうが、茂は給料日に新品を買うと、また海へ。茂のサーフィンへの情熱を知ったサーフショップ店長の中島が、中古のウェットスーツとサーフィン大会の出場申込書を差し出す。大会当日、茂は出番を告げるアナウンスが聞こえずに失格となってしまうが、サーフィン熱は高まるばかり。常連サーファーたちとも次第にうちとけるようになっていた。こうして2度目のサーフィン大会を迎える。腕を上げた茂はみごとに入賞し、仲間たちの祝福を受ける。
 そして充実した夏が過ぎようとしたとき、思いもよらぬ出来事が・・・。

文字縮小どんな個性も特別扱いしない。それが大事。コミュニケーションをとる方法は自分たちで考えればいい
 わたしがこの映画のなかで一番好きなのは、恋人が乗ったバスを主人公の茂が追いかけるシーンなの。一緒にバスに乗るつもりだったのに、茂だけ「サーフボードは乗せられない」と乗車を断られてしまうのね。彼女は茂がバスに乗らない理由がわからないまま、バスに乗って行っちゃった。そのバスを、茂はサーフボード抱えて一生懸命追いかけるのよ。そして彼女もまた、置いてきた茂が気になって途中でバスを降り、来た道を走って戻る。それでまた二人は再会するという・・・。ちょっとした気持ちの行き違いなんだけど、でもそんなことってどんな恋人同士にでもあることじゃない? 耳が不自由だから、障害者だから、という「理由」が何かそこにあるかというと、ないのよね。

 これは監督であるたけしの視点なの。たけしっていう人は顔がいかついし、物事をハッキリ言うから「荒々しい毒舌家」っていうイメージをみんな持ってると思うんですけど、ほんとはこの映画みたいな人なのよ。ものすごくシャイでセンシティブで、そして人を見る時はすべからく「個性」としてとらえるの。ゲイだろうとヤクザだろうと、目や耳が不自由だろうと、すべてそれは個性で、みんな人間なんだっていうとらえ方。だから何かを責めたり悪口を言う時も、個性を欠点としてあげつらうんじゃなくて、個性は個性としてあって当たり前だっていうスタンスを持っている。そこが彼の素敵なところで、この映画にはそれがきちっと出てるの。

 彼はこう言われるのはとってもイヤなんだと思うわよ。面と向かって「お前らが褒めたってちっとも客が来ねえじゃないか」なんて言ったんだから。「それはアンタがヘタだからよ」って言い返しましたけど。そういうたけしの眼で撮った映画だから、茂の耳が聴こえないってことを、周囲の大人たち、特にサーフィンの仲間たちは特別なことだとは考えてないの。耳が不自由だってことは既成の事実で、コミュニケーションをとる方法は自分たちで考えればいいっていう感覚。私はそのことがとっても大事だと思うわけ。映画のなかだけでなく、日常生活でもね。

バリアフリーを叫ぶ前に、忘れてはいけないこと
おすぎさん

  目の見えない人のために、音が出る信号を考え出す。それは一見とっても優しそうだけど、そんなことよりもまずやらなきゃいけないことがあるでしょ? 信号を渡ろうとしている目の不自由な人がいて、困っているなと思ったら「どちらの方向へ行きたいんですか?」って聞けばいい。そして渡るのを手伝ってあげればいいのよ。その手伝いを「いりません」っていう人もいるだろうし、それならそれでいいのよ。そういうことを教える教育がまず必要なんだと思うの。

 もちろん、街をバリアフリーにするのはいいことよ。でも今まで私たちの社会は、障害がある人たちを隔離してきたわけじゃない? いろんな面でね。で、「世の中の“つくり”が障害者向けにできてないから外に出さないと」ってことにしてきたの。だけどここにきて高齢者が増えてきたのね。年を取るってことはあなた、どこか「障害者」になるってことよ。耳は遠くなる、目は見えなくなる、腰は曲がる・・・ね?

  そういう高齢者が増えたから、バリアフリーが必要になった。つまり健常者たちは、自分たちに必要になったからあちこちをバリアフリーにしなきゃならなくなったのであって、「障害がある人のために」っていう気持ちがあってやってるんじゃない。そういう健常者たちの欺瞞を、わたしたちは指摘しなくちゃいけないんじゃないのかしら。わたしはそう思うけど・・・。

 そのへんをごまかしてるから、本来なら人間が持ってなきゃいけない思いやりみたいなもの、たとえば駅の階段を下りるお年よりが手荷物をいっぱい持ってたら「お持ちしましょうか?」って声をかけるような気持ちをどんどん忘れちゃう。子どもたちに教育やしつけもしない。ボランティア活動を点数化して内申書に反映したり、カリキュラムのなかにボランティア活動を組み込んだりする動きもあるみたいだけど、こういうことって人に言われてやるものじゃないでしょう。「心」が入っていない制度や設備をつくってもしょうがないじゃない。

  一方で、障害をもってるのが特別なことだと思っている障害者がいたら、それはおかしいことでしょ? 個性として考えれば、障害があるということも含めて「その人」なんだから。たとえば同性愛だって、わたしにとってはそれが普通なのよ。仕事だってそう。よく「歩いているとキャーキャー騒がれませんか?」って聞かれるけど、「別に騒がれません。騒がれても気にしません」って答えるの。私の職場がテレビやラジオだっていうだけの話で、ほかの人と特別に違うわけじゃない。たくさんお金をもらえるかっていうと、他の人と比べればわたしは四六時中働いてるからお金もそれなりに入ってはきますけど、サラリーマンみたいに保証されてるわけじゃないですから。自分で選んだものをやってるという意味では変わりはないのよ。

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