阪神・淡路大震災以降、大規模災害の被災地には多くのボランティアが駆けつけるようになった。浦野愛さんはこうしたボランティアと被災地のニーズを調整するボランティアコーディネート業務や防災ボランティア講座を展開する防災NPOのスタッフとして活動している。阪神・淡路大震災時に学生ボランティアとして被災地入りしてから11年。ボランティアの現場で出会った人、出来事、そして社会福祉士として施設勤務の経験を経てNPO職員となった現在、「やっと私の居場所がみつかった気がする」と語る。
── 1995年、阪神・淡路大震災時には多くの若者がボランティアとして被災地に入りましたね。「ボランティア元年」とも言われた年ですが。
11年前の1月17日は、静岡の実家にいました。震災はテレビで知りましたが、まるで外国の災害を見ているようで・・・。春から大学生という時期でしたから、新生活のことで頭がいっぱいでした。ボランティアの盛り上がりも知っていましたが「神戸に行こう」という気持ちはまったくなかったですね。
── ところがいまではボランティアに深くかかわる仕事をされている。ボランティア活動に関心をもったきっかけについて教えてください。
大学に入学して間もなく、春休みに神戸でボランティア活動をしてきた学生の報告会がありました。このとき車椅子の方がボランティア報告をしたことにとても驚いたんです。車椅子の人が被災地に行ってボランティアができるのだろうかと。
── 障がい者の方はボランティアされる側だと思われがちですね。
ご本人も神戸で応援したいが車椅子では無理だろうと思われていたそうです。でも、うちの栗田(現、レスキューストックヤード代表理事 栗田暢之氏。当時は同朋大学職員)が「オレが背負ってでも連れていく。車椅子の事なんて何とでもなる」と一緒に現地入りしました。その方はボランティアの拠点で震災の記事を集めてファックスで送るという活動を任されたのですが、この情報が名古屋ではとても役に立ったそうです。障がい者だからボランティアができない、ということはないんだなぁ、って。このことは今でも印象に残っています。その報告会のあと、サークルに行きました。
── じゃぁ、もう熱い気持ちになって・・・
というより、なんとなーく、かなぁ。先輩たちに心の壁がなくてとても居心地のいいところでした。そのサークルから5月に神戸の仮設住宅に行くことになったんです。
── はじめての震災ボランティアはいかがでしたか
あたりまえなんですが、神戸では知っている人は誰もいなくて・・・・先に来たことがある先輩は親しい感じで話していても私はぽつん、とひとり黙って集会所のお茶を片付けたり、お皿を洗ったりしていました。雑用ばかりさせられた気分で、かなりムカついていて帰ってから「ボランティア活動をさせてくれなかった、ちゃんとしてほしい」と、先輩に怒りながら言ったんです。
── そのときの先輩の言葉は?
あなたは自分からできることを自分で探そうという気持ちを持っていたのか、って。私は行けば「これをやって」と活動メニューを与えてもらえると思っていたんです。
── 「ボランティアで来たのに仕事が用意されていない、思っているのとちがう事をさせられた」と怒る人はいますね
指示待ちの姿勢で自分から関わろうという気持ちがなかったし、被災された方が本当に望んでいることは何だろうという疑問や、ボランティアはいいことで、場合によっては迷惑になるということも考えていなかったんです。先輩に指摘されてからは思い直して月に1度、仮設住宅のふれあいセンターに行ったり、手づくり教室のお手伝いをしたりしていました。
── 阪神・淡路大震災では自由で元気な学生ボランティアが被災者の方々を力づけてくれました。でも、時には厳しい言葉を投げられた人もいるようですが
サークルの一人が被災者の方に「困ったことはありませんか?」とたずねたら「金もってこい、家を建てろ」って言われたことがありました。いろいろなボランティアが同じことを聞いてくるのでイライラしていたのでしょうね。人の世話になっているということへの抵抗感や、ぶつけどころのない怒りが向けられたのだと思います。
── その人はボランティアをやめてしまったのですか?
最初は「二度と行かない」と言っていました。カッとなっている気持ちを吐き出してもらって、そのあと私たちは被災者、当事者の方々の気持ちを理解できているのか。側で何かしようという気持ちをもっていていいのか・・・・わからないのがあたりまえなんじゃないか。分かったふりをするより分かりたいという気持ちを伝えていくことが大切なんじゃないか・・・・仲間といろいろ話しあいました。そうした中でもう一度神戸に行こう、という気持ちになれたみたいです。学生時代は本当によく話し合いましたね。この仲間はいまでも何かあるときっと助けてくれると信じています。
── ボランティア活動は自分自身の気持ちと向き合うことも必要ですね
ボランティアで私たちが「いい気持ち」になりたいだけじゃないのか、ということをよく考えていました。
被災地の暮らしが再建していく中、ボランティアという立場で自分にできることなどもう無いんじゃないか、という無力さを感じていた時に、仮設住宅で「ありがとう、忘れんといてな」とひとりの男性から泣きながら言われてびっくりしたことがありました。ちょうど地下鉄サリン事件があり、神戸が忘れられるのではないかと不安だったんじゃないかなぁ。でも、今になると「忘れんといてな」の言葉の意味は、「私たちのように災害でつらい思いをする人たちをこれ以上増やさないで欲しい。そのことを忘れんといてな。」という意味もあったのではないかと思っています。「ありがとう」という男性の言葉に、「自分たちが今ここにいること、学んだことを他の人に伝えていくこと」だけでも相手の方にとっては意味のあることなのだということに気付きました。
── 浦野さんご自身が「やめたい」と思ったことはないのですか?
ありますよ、もちろん。学生の頃でしたが、「あれもやらなきゃ」「これはやるべき」と義務感で自分を縛るようになってしまったんです。楽しみではじめたこのとなのに「何で私ばっかり」という気持ちでいっぱいになって、ついに「やめます」と。
── 周囲の方は驚いたのではないのでしょうか
栗田が「やめたらいいじゃん」って一言。
── 「もう少し考えてみたら」とかそういう言葉は・・・・
実は、引き留めてくれると思っていたんです。頑張っていることを誰かに認めてほしいという気持ちもあったのでしょうね。でも頑張ったのか、頑張っていないのかは私が主張することではなくて相手が決めることなんです。栗田の言葉で「あなたが必要なんだ」と言ってもらいたいための活動だったと気がつきました。相手のことをきちんと見ていないから「どうして私ばかり」とか「やらされている」という気持ちになってしまったのでしょうね。自分の思いだけでは相手の負担になるし、押しつけになってしまうんだなぁ、と。
── 良いことだと思っていても押しつけになってしまうことがあるのですね
大学を卒業して施設で働いていた時は、逆に眠っているお年寄りから癒されました。話すこともできない状態でしたが、側にいるだけで気持ちが落ち着くんです。「ああ、話さなくても、動くことができなくても人には人を助ける力があるんだ」と実感しました。
── 社会福祉士という仕事にも得るところはたくさんあったと思いますが、どうして防災NPOスタッフに転職されたのですか
防災と福祉というのはタテ割りで考えられがちです。でも高齢者や障がい者の方々を災害から守るには福祉の視点が欠かせません。避難所でのケアはもちろん、日常の防災訓練や防災教育の中でも災害時に誰が、どんな支援を必要とするのか、また支援の方法も十分に伝わっているとは言えません。私なら防災と社会福祉の視点からいろいろなことを提供できるかもしれないと思いました。こうしたことはNPOの方が柔軟に取り組むことができますから。
── 行政機関の「公平さ」は柔軟とは言えませんね。公平だからこそ一般の人々より弱い立場の人に救援の手が届かないという矛盾も発生してしまう
災害発生時に避難命令が聞こえない、あるいは動くことができなくてとり残されたり、避難所で困難を強いられるのは高齢者や障がい者の方々です。大変な時代を生き抜いてこられた方々が災害で命を失うのはあまりにもせつないことです。過去の教訓からの学びを丁寧に伝えていくことで、「防災」を切り口にしながら、地域社会が一人ひとりの命や暮らしの大切さを見つめなおすきっかけをつくっていくことができればと思います。。
── 社会貢献をする人に「あなた一人が頑張っても社会は変わらない」という人もいますが
そういう方もいるでしょうね。でも私は自分の役割をみつけました。この仕事についてようやく自分の居場所はここだと思えるようになったんです。
──10代に経験したボランティア活動が浦野さんの居場所をつくってくれたのですね。いま、かつての浦野さんたちのような学生ボランティアと出会ってどのようなことを感じますか?
あのころの自分もそうだったのかなぁ、と思うのですが若いというだけで周囲の人を元気にする力がありますね。いるだけで価値があるというか。どんなきっかけでもいいからボランティア活動で「ありがとう」という言葉に出会ってほしい。
──ありがとうございました
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