今、芸能というと「エンターテイメント」をイメージする人が多いのではないでしょうか。「エンターテイメント」とは、人を楽しませる、喜ばせること。もともとは「もてなす」という意味でした。転じて、今では芸能を「見て楽しみ、日常の忙しさをひととき忘れるための娯楽」といったふうに考えられているようです。しかし、古い時代に遡ると、芸能はもっと深い意味をもっていました。
今でもそうですが、「芸能」とは、踊る、舞う、歌うことです。その極致は、一口で言えば神々の世界と交流し、「狂う」状態に入ることです。精神が通常の状態ではなくなってしまうわけです。日常を忘れ、神のごとく非日常の世界に入る、忘我の境地。これが芸能の究極です。
なぜ、こうした「芸能」が生まれたのか。起源はおそらく縄文時代以前、石器時代人からではないかと考えています。大自然のなかで、いわば丸裸の状態で生きていた人間は、自然の力を頼って生きていました。日が照らさないと作物が育たないし、雨が降らなければ作物は枯れ、自分たちも飲み水に困ります。そこで、畏怖をこめて天には神がいると考えるようになりました。地や山、川、海、森にもそれぞれ精霊が宿っており、大自然で起きる現象はすべて神や精霊の働きによると考えたのです。今なら気象衛星で台風だとわかりますし、大地震は地球を覆っているプレートが動くことによって起きることがわかっています。
けれど古代では、神を怒らせると暴風雨や大地震が起きると信じられていたのです。こうした「超自然観」をアニミズムといいます。現在の宗教のはじまりといえるでしょう。
アニミズムにおいては、人間は神様なくして生きられません。豊作も飢饉も自然災害も神様の気持ち次第ですから、神に祈ったり感謝したりすることが非常に重要です。
この時、祈りや願いを通じて神様と交流する人を「シャーマン」といいます。「シャーマン」は自ら恍惚のトランス状態に入り、通常のヒトとしての人格を放棄して、神や精霊と交わり、お告げを受けます。病気の治療もおこないました。このような原初的な共同体の祈り(祭祀)や感謝(祭礼)における呪術的儀式が芸能の原点なのです。
アニミズムは、神と交わるという宗教以前の宗教でした。そして神と交わる役割は、独特の人格と能力のある人が果たしていました。時代が縄文から弥生時代へと移るにつれ、武力をもった「権力者」が現れ始めました。そして持てる者と持たざる者とに分かれていったのです。社会的な身分もはっきりしてきました。
芸能もさまざまな職業のひとつとしてとらえられるようになります。職業である以上、見た目や動作の美しさやリズム感など技能や洗練が要求されます。持って生まれたものだけでなく、トレーニングや技能の伝承が求められるようになってきたのです。そうなると専門家がリードするグループが必要となり、芸能集団といわれるものが形成されてゆきました。それらの人たちが、王侯貴族などの権力者や寺院にかかえられて、神や仏の前で歌い、踊り、舞い、演技するようになったのです。
洗練された芸能は、権力者を楽しませるものとして、あるいは外国から使者が来た時に自分たちの文化を誇示するものとして、演じられました。
一方で、民間には祈祷師がいました。彼らは民間系の「シャーマン」でした。村落のなかに必ず一人はいて、豊作や病気の治癒のための祈りから占いまで何でもやっていたようですが、くわしい記録が残されていません。こうして芸能は、権力に抱えられて洗練されていくものと、庶民の生活に密着した土俗的なものとに分かれていきます。
また、当時の芸能は寺社と深い関わりがありました。特に朝廷貴族と結びついた、力のある寺社は、専属の芸能集団を抱えていました。そして祭礼の日には境内で能や舞が演じられました。もともとは神々と交流し、その願いごとをかなえるための行事(神事)だったわけですが、社寺や仏像の建立や修繕のために寄付を募る「勧進」興行としても演じられました。仏や神の功徳をたたえながら信仰の道を説くという建前のもとで、芸能が演じられていたのです。
このような興行にたずさわる人が「役者」と呼ばれました。役者とは、寺社の祭祀儀礼の際に特定の「役」をもつ人の呼び名だったのです。当時の人々は信仰心があつく、娯楽もほとんどないこともあって、寺院の境内などで祭礼の時に上演される勧進興行は、またとない楽しみだったでしょう。
能もそうして生まれた芸能です。平安時代に能の原型が生まれ、室町時代に観阿弥・世阿弥の親子が能を舞台芸術として完成させます。賤民出身で各地を転々としながら多くの作品を生み出しました。世阿弥が書いた『風姿花伝』という芸術論には、神や仏に捧げるものでありながら、大衆的な娯楽としても人々を楽しませなければならないと苦悩する有様が書かれています。
能も狂言も庶民のなかから生まれたものですが、特定の貴族が愛好し、次第に権力者たちに取り立てられるようになりました。しかし一方で、役者は身分の低い者とされ、差別されていました。世阿弥は日本が生んだもっともすばらしい芸能人だと私は思っていますが、彼も当時の貴族から「乞食所行」と呼ばれていたのです。生まれた年も死んだ年もはっきりとしませんが、各地をさすらう一生だったようです。
世阿弥は、当時の社会で自分と同じように卑しい者とされ、差別されていた人々に目を向けていました。「三卑賤」と呼ばれる3つの名曲がありますが、これは殺生をして地獄へ堕ちた漁師や猟師が通りすがりのお坊さんに救われるという物語です。仏教の教えである「不殺生戒」(生きものを殺してはいけないという戒め)が行き渡っていた当時としてはとても意外な結末で、彼らも仏の慈悲によって地獄から救われるのです。
室町時代を境に、日本社会はしだいに中世から離れて現代につながる新しい要素が出てきます。具体的にいうと、鉄を利用したり森林を開拓したりすることによって農耕生産力が大きくあがり、余裕が生まれます。また、社会的分業が進み、さまざまな手仕事が生まれ、商品市場ができます。交通の便もよくなります。朝鮮から伝わった活版印刷も始まります。生産、交通、コミュニケーション、メディアの各分野で、社会生活が発達したのです。
芸能もそのなかに組み込まれていったわけですが、先ほども述べたように、芸能者の地位は低くおとしめられていました。当時の日本は農本主義社会で、主食である米をつくる農民が「良民」とされていました。商業や工業にたずさわる人は農民よりも低い身分とされていましたが、生産に従事しない芸能はさらに低い身分とされていました。
もともとは神に最も近い存在とされていたのですから、一番高い身分でも不思議ではありません。しかし、室町時代には、かつてのような宗教的な役割は否定され、物を生産しないで各地を流浪する芸人で、社会的にも卑しいとされてしまったのです。
安土桃山時代に入ると、織田信長や豊臣秀吉による宗教政策によって、力をもっていた寺社の勢力が衰えていきます。寺社が握っていた芸能の興行権も大幅に制限され、寺社に管理されていた遊芸民たちの芸能活動は、各地の芝居小屋、つまり自由な市場へ積極的に進出することによって活発化しました。
そしてこの頃から神仏信仰とは無縁な形で、芸能をエンターテイメントとして演じ、木戸銭といわれる入場料さえ払えば誰でも入れる芝居小屋という興行形態がしだいに確立していったのです。
しかし広く大衆にもてはやされるためには、常に時代にふさわしい芸能を自分たちで創り続けていかねばなりません。この頃に生まれた芸能で代表的なものが「歌舞伎」や「人形浄瑠璃」「説教芝居」です。西洋社会における文化、すなわち音楽や絵画、演劇は、王侯貴族がパトロンとなった宮廷文化を中心に発展しましたが、日本の三大芸能はすべて低い身分におとしめられた人々のなかから、自主的かつ創造的に生まれたものです。
「河原者」「河原乞食」とさげすまれながら、また、権力からの度重なる弾圧にもかかわらず、世界の芸能史上でも高く評価されている新しい舞台構造と演技様式を創り出していったのです。
歌舞伎とは「かぶき者が演じる芝居」というところから名付けられています。「かぶく(傾く)」とは、中世の頃は自由奔放にふるまうという意味でしたが、そこから異様な身なりで新時代の先端をいくファッションや、体制に背を向けて生きるアウトローを「かぶき者」と呼ぶようになりました。
歌舞伎は、そうした「かぶき者」たちから生まれました。今でこそ日本を代表する伝統芸能のように思われていますが、原点は底辺に生きる人たちが最先端のファッションに身を包んで反体制を表現した芸能だったのです。
三大芸能のほかにも、大道芸や門付芸、見せ物芸など数多くの芸能があり、人通りの多い道端や寺社の境内、お祭りなどで演じられていました。人々はそうした芸能を楽しみつつも、各地を転々としながら暮らす遊芸民たちを「その日暮らしの漂白民」として差別的に見ていました。
その歴史は今の芸能のあり方や実態にもつながっているように思えます。華やかな芸能界に対する差別も、見えにくいながらも今日でも残っていますし、華やかなオモテ側のメディアに登場しない芸能の世界では、さらにきつい差別の影が残っています。
だからこそ、芸能には娯楽的な部分だけでなく、怒りや反骨心など、この不安定で行き先もよくわからぬ時代を突き抜けるパワーが不可欠だと思っています。このような芸能の原点と歴史を知ってもらうことで、「芸能とは何か」をあらためて理解してもらえるのではないでしょうか。
(取材:2009年11月)
>>日本の歴史と文化で考える人権vol.1「「日本人」はどこから来たのか」
|