日本人の両親のもとに生まれた、あるいは日本で生まれ育った人は、ごく自然に自分を「日本人」だと考えます。しかし、歴史を遡っていくと、私たちはいくつかの異なった民族に分かれます。
そしてそれぞれの民族集団は、何万年もの間に、北から南から、そして西から東から、順次やってきては根を下ろしました。つまり先にやってきていた民族に戦いをしかけ、征服し、あるいは婚姻し、この日本という土地に根付いていきました。こうしたことが数万年の間に数え切れないほど繰り返された結果が今の日本人です。
つまり、私たちの言う「日本人」とは、いくつかの異なる系譜をもった民族集団が、複雑にからみあい混じりあっており、決して「日本人」というひとつの系譜にはまとめられない。同様に、日本文化といわれるものも、渡来してきた民族集団がそれぞれ持ち込んだものが混じり合い、あるいは日本の風土に合わせて変化してきたものなのです。
なぜ、私がこのことを強調したいかというと、ことさらに「日本人」の優秀さを強調したり、「日本人」としてどうあるべきかという精神論、教育論を国民に押しつけようとする風潮が根強くあるからです。これだけ情報にあふれた社会でありながら、「日本人」がどうやって形づくられてきたかは驚くほど知られていません。私たちはまず、私たち一人ひとりのルーツは多様であるという事実を知る必要があります。
まず、「ヒト」の成り立ちについてお話ししましょう。
「ヒト」はもともと熱帯・亜熱帯の動物でした。今から百万年ほど前に、「原人」がアフリカから出てユーラシア大陸に広がっていきました。「原人」から「旧人」を経て「新人」まで進化するのに百万年以上かかっていますが、その間に何度かの氷河期を経験しながら、体型や皮膚を変化させながら環境に適応したり、暖かい低緯度地方へと移動したりしました。気候の変動に基づく生存条件の変化が、「ヒト」がいくつかの人種に分かれさせる大きな原因となったのです。
熱帯アフリカに広がった「ヒト」は、黒人種(ネグロイド)となり、ヨーロッパまで分布したのが白人種(コーカソイド)、アジアにやってきたのが黄色人種(モンゴロイド)となりました。
ところで、生物のなかで「ヒト」がもっとも優れているという人間中心主義(ヒューマニズム)は、非常に思い上がった考え方です。さらに「ヒト」の中心にいるのがヨーロッパに住む白人だとする近代主義的な歴史進歩史観が長い間、まかり通ってきました。この考え方に「日本人」も強く影響を受けていて、われわれモンゴロイドに比べ、先天的に白人が優れていて、黒人は劣っていると思い込んでいる人が未だにいます。
こうした観念は、16世紀からのイギリスやスペインなど西欧列強によるアジア、アフリカ侵略の過程において、ヨーロッパに都合よくつくられた差別的な「人種」理論です。文明をもつ白人社会が、半開の黄色人社会や未開(野蛮)の黒人社会を“指導・教育”するのだという建前のもとで侵略をおこなったのです。
明治維新直後の日本もこうした欧化主義に影響され、<脱亜入欧>思想となってあらわれました。西欧の植民地化には抵抗しながら、いかにして西洋文明と肩を並べられるようになるかが大きなテーマとなったのです。それが日本帝国によるアジア侵略戦争のスローガンになりました。
先ほどお話ししたように、地域によって皮膚の色が違うのは、それぞれの気候に適応するためです。寒い北方では、背が高く面長で体毛の薄い人が多く、熱い南方はその逆です。寒気に触れる北方では、体重に対する体表面積を小さくして体温を保てる体型が求められるため、長身面長型になったのです。
人間の体質は可変的で、環境に応じていくらでも変化することができます。しかし、形態にいくらかの違いがあったとしても、「ヒト」としての素質に変わりはありません。皮膚や髪の色や背の高さ、顔つきなどの違いによって、人種的な優劣をつけるのは間違っているのです。
今日では皮膚の色によって人間集団を分類する方法は、非科学的とされています。皮膚色を中心とした「人種」という分け方そのものが疑問視されているのです。
それでは、今日の日本という国や「日本人」は、どうやって成り立ってきたのでしょうか。私たちモンゴロイドと呼ばれたアジアに住む人たちは、さらに<古モンゴロイド>と<新モンゴロイド>に分類することができます。古モンゴロイド系は背がやや低く、彫りの深い顔で体毛は多い。色はやや浅黒いという特徴があります。おもに南方アジアに分布しています。
それに対して、新モンゴロイド系と呼ばれた人たちは、のっぺりとした顔で体毛が薄く、背が高い。皮膚色はどちらかといえば白い。こちらは東北から北方アジアに広がっています。
一方、日本列島が今のように海に囲まれた島国になったのは約2万年前の氷河期の終焉期です。気温が上昇し、海水面が約150m上昇したため、大陸から切り離されました。列島となった日本には、旧石器時代後期から東南アジアから北上してきた古モンゴロイド(=南方系モンゴロイド)の先住民が住んでいました。
気候の温暖化に影響され生まれた「縄文文化」がこの日本列島で発展しますが、その後、中国大陸の江南地方に住んでいた倭人系が渡来してきます。倭人たちは稲作文化と金属器文化をもち、朝鮮半島を経由して九州へやってきました。その後も何波にも分かれて朝鮮半島からやってきた倭人系の渡来集団は、その数を増やすにつれて九州・四国から西日本まで広がり、先住民と融合しながら古代文化の基礎となる「弥生文化」、さらに古墳文化の発展の推進力となります。
次に、東北アジアに住む騎馬民族系の集団が朝鮮半島北部に入ってきます。「高句麗」を建国し、さらに半島を南下して、「百済」「新羅」をおびやかします。
北方系文化の影響を受けた朝鮮半島からの渡来人は、早くから九州北部にやってきます。そして縄文からの先住民や弥生時代の渡来民を制圧して融合しながら、勢力を広げ、やがて近畿地方まで進出してヤマト王朝を建国しました。しかし、北関東以北の地方と南西諸島を中心とした縄文人以来の伝統的民族は、新しい渡来集団の遺伝子を受けることが少なく、独自性を維持してきました。それがアイヌ民族と南西諸島の先住民です。
まとめると、現在の日本民族には6つの源流が考えられます。まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔です。2つめは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民です。3つめは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられています。今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとです。4つめは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系です。5つめは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びとです。6つめが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っています。
このように、日本民族は、異なる時期に、相次いでこの列島にやってきた、さまざまなモンゴロイド系の混交によって形成されました。いくつものモンゴロイド種の、数万年以上にわたる複雑な混血の結果が今の現在の日本民族なのです。純粋かつ一系(ひとつの流れ)の日本民族というものは存在しません。
もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、縄文人の血を引くアイヌ民族です。近年、分子生物学や遺伝生物学がめざましく発展し、人類学にも大きな影響をおよぼしています。地球に住む「ヒト」の歴史が科学的に解明できるようになったのです。
たとえば、アイヌの人たちの血液からDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかりました。これを根拠に、2008年、国会で「アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議」が満場一致で採択されました。
日本列島の最初の住民は、数万年以上も前にやってきた人たちです。あえて言うなら、その末裔である縄文人こそ、私たち日本人の直接の祖先なのです。縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者(インベーダー)でした。
ヤマト王朝を建国後、万世一系と称する天皇制の皇統譜(こうとうふ)を作成し、それを『日本書紀』、すなわちヤマト王朝の自分たちに都合のいい歴史をつくり上げて、「正史」としたのです。歴史とは必ずしも「本当にあったこと」の記述ではなく、その時々の権力が自分たちに都合よく創り上げるものなのです。
ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しました。
そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでいた土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築されたものなのです。
戦後、自然科学の発達と同時に、長い間、国家権力によって押さえつけられ、タブーとされてきた天皇制批判が解禁されました。学問研究の自由が保障され、戦争中に発言を封じられていた研究者たちが次々と研究の成果を発表しました。そのうちのひとつが考古学者・江上波夫が発表した<騎馬民族征服王朝>論で、ヤマト王朝を打ちたてた天孫族は、2,3世紀ごろに東北アジアから朝鮮半島に来た騎馬民族が、4~5世紀に日本列島に渡ってきたものであるという主張です。これは天津神の子孫と称してきた天皇家の民族的出自を明らかにするものとして、大きな波紋を投げかけました。部分的反論もありましたが、東アジア史を踏まえながらヤマト王朝形成史を体系的に提示した学説は、そのころはまだ現れていませんでしたから、学界やジャーナリズムに大きなショックを与えました。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少なくないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々によって成り立っていることも驚くほど知られていません。
せっかく進んできた歴史学や考古学、人類学が小・中・高の段階できちんと教えられていないからです。「自分たちの国や民族は特別なのだ」という発想から、他国や他民族への抑圧や差別が生まれます。国家・国民とは、人為的な政治的枠組による「国籍」概念にすぎません。そして「国籍」問題は、民族形成の歴史的過程論と同じ次元で論じることはできません。
わかりやすくまとめてみましょう。最初に述べたように、私たち「ヒト」のルーツはアフリカで誕生した原人です。世界中に散らばり、それぞれの地方の風土や自然に順応した結果、さまざまな「民族」へと枝分かれしました。生物学的にみても、「ヒト」のもともとの能力や素質に優劣などありません。
国家や国民という概念は、現在、力をもっている者がつくった政治的な構築物であり、本来の民族とは別のものであるということです。私たちは、権力をもった者が創り上げた枠組みのなかに組み込まれ、支配体制に都合のよいようにつくられた歴史を学ばされているんです。まずそのことを知り、日本という国がどのように成り立ってきたかを学ぶことが重要です。それが真の歴史教育であり、人権教育の第一歩だと私は考えています。
(取材:2009年6月)
>>日本の歴史と文化で考える人権vol.2「なぜ人は、歌い、踊り、演じるのか」
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